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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#51 歴史巡り

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 神社が好きだと口にすれば、周囲の誰かしらが同調してくれるように、日頃の視野から外れた場所や時間軸というのは、私たちが持つ「世界を知りたい」という欲求の表れの一つであり、多くの人が知らず知らずにここではない場所へと向かう理由だと思う。世界を、過去を、未来を知りたいということは、ぐるりと巡って、結局は、現在現実との差異の認識によって、現在をより深く立体的に知ることをもたらしてくれる。つまり、それは多くのヒーリングが求めようとする、「今、ここを生きる」ということへと結果として繋がる。「世界を知りたい」は、「自分を知る」「今ここを知る」「今を生きる」ということへとブーメランのように戻ってくるのだ。
 例えば、長崎の外海や五島を旅すると、本やインターネットでは感じづらい風土感が得られ、宗教や信仰への感触が、時間という縦軸と地域という横軸を元に、リアルに立ち上がってくる。それは学習というよりも生々しい体験として記憶に刻まれることとなる。かつての禁教時代の信者の思いや苦しみを追体験することで、信仰とは何か、宗教とは何かという問いを生きることになる。それは現地に訪れることでしか味わえないものであることは確かだ。経験こそ至上だとは思わないが、知識よりも経験が優れることがあるのも確かだ。山中にひっそりと佇む教会の姿を一目見ることでしか分からないことがある。
 先日訪れた福岡の王塚古墳では、見事な装飾古墳の彩色絵画を目にすることができた。
 芸術的に優れているとかという観点からも興味深いのだが、そこにある図様は、そのプリミティブな息吹が、人類の壁画に共通する何かを表していることへと思いを馳せさせてくれる。時代や地域の限定が、文化的発展度と顔料などの原料調達の利便性の限定につながり、地理的に離れている場所の壁画への共通性を生み出すことは、理解が容易なのだが、描きたいという欲求そのものは、学術的な見識だけでなく、スピリチュアル的な角度が、理解する上で必要になってくると思う。
 描くということが、第三者の評価を気にすることなく、ただ思うがままの行為だった時。それは、誰しもが幼年時代の自分の姿を通して知っていることだろう。脳と指が直結し、ただ描いていた時が誰にでもある。
 装飾古墳に描かれている色や線には、そういう時分と同じ何かに突き動かされて得られたものを感じる。不慣れな線であり、色であり、と言ってしまえばそれまでだが、そこに感動してしまうのは、私の中の何かが同調するからであろうし、多くの人の心の何かと同調するからだろう。


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