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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#60 落書きで癒す

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 帰宅すると、さっそく子供の部屋の収納を漁り、埃を被った箱から色鉛筆やクレヨンやらを取り出して、自分の机の上に並べた。LYRA社のクレヨンは、まだ未使用で、水を含んだ筆でぼやかせるものだった。机の中央に買ったばかりの正方形のクロッキー帳を据えて、さらに筆ペンやマッキーを脇に並べてみた。さあ、何を描こう。
 クロッキー帳の最初のページをめくると、当たり前だが、朝の雪原のように何にも汚されていない姿があり、息をのんだ。この美しさを忘れていたのだ。始まる前のことを真っ白なキャンバスなどと言うが、まさにそれであった。
 さあ、何を描こう。さしあたって描きたいものは無いのだが、それが素晴らしいことのように思えた。描きたいものが無いのに、描こうとしている。それはどう生きていいかわからないのに生まれてしまった者と対応しているかのようで、自然現象の荘厳の香しさがあった。また、懐かしい原風景のようでもあった。もっと分かりやすく言うならば、子供の頃に戻ったようだった。そう、描きたいものなどなかったのに、アスファルトにチョークで描き始めたあの最初の瞬間を思わせたのだ。

 真っ白な最初の1ページを眼下にして、これはヒーリングになるなとすぐに思いついた。何か描きたいものが心に浮かんでしまう前に、どんどん指先に任せて描いていく。誰に見せるためでもなく、まして、「表現」という呪縛に絡まれることもなく、ただひたすらに遊びとして描いていく。没頭し、熱中し、ただ描くだけの行為は、セルフヒーリングではないだろうか、そう直感した。 


 セルフヒーリングにおいては、普段は論理的な思考などに覆われてしまっている私たちの裸の心に自ら触れることが大切である。社会的な責任や道徳を優先させて人の世界は保たれているのだが、そこには本心を押さえてしまうが故の歪みが程度の差こそあれ誰にでもある。本当の自分と、社会的な自分とが大きく引き離されてしまうことで分裂してしまう人格を、手なづけるようになんとかしつつ私たちは暮らしているのだが、時々はギャップに心を配る必要がある。メンテナンスである。
 そのためには様々な方法があり、カウンセリングなどは他者との対話によって導かれるものだし、セラピーと名のつくものは大方が自分と折り合いをつけていく術である。
 だが、医療がそうであるように、これからはセルフヒーリングの時代であり、医術をはじめ特殊な能力を持った他者に頼り切るだけでなく、メンタル面も自己管理し、予防や、対処に勤しむことが必要となる。
 スマホなどの普及によって、投資や芸術表現などが特殊技能分野から解放されたように、情報や手段、方法がオープン化されるに伴い、大方の物事が個人的に習得可能になった。もちろんセルフヒーリング然りである。
 これからの世の中では、解放されたかつての特殊技能、技術を比較的容易に身につけることで、それぞれが個人商店経営者のように存在することが可能だ。その分、多くのことを出来る多芸さが求められる。投資をしつつ音楽制作をし、さらにボランティアに精を出すような多面性を持ったライフスタイルが、これからはさらに可能となり普及するだろう。



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