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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#3 瞑想

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夜明け前はいい。一日で最も好きな時間だ。夏ならば、庭に出て星々が西に下るのを眺めている。冬ならば、部屋の中から窓の外を眺め、灯油ストーブの側で鳥の鳴き声を待っている。
多くの生物がまだ眠っている世界というのは、とても静かで、この時間に目覚めていると、孤独が美しく感じられる。
朝の孤独。
私には、この朝の孤独が必要だ。
自分を囲む広大無辺な世界と一対に繋がる実感を得ても、尚も満ち足りない心を持つことの孤独。朝ならば、その孤独を味わい、慈しめる。自分や世界に何を問うこともなく、孤独であることが、嬉しくさえ思える。それは、例えば、惑星が自らの孤独を嘆かないように、ただ存在することを受け入れられる。私は地球の上の点となり、太陽を何遍も周回する星の一つなのだと思え、楽観できる。
夜明け前。
ベッドからの温もりが体からすっかり抜けてしまう前に、短めのヨガをしてから、瞑想をする。
早起き、ヨガ、瞑想。
この一連が習慣化してから、少し人間がふわりとしたような気がする。時々途切れたりもするけれど、続いているのは、心地良いからなのだと思う。
生活の、千々とした場面の連なりで、一日は明け、暮れて行くけれど、それぞれの場面を心地よく過ごすことは、とても大切だと思う。我慢や頑張りから離れて、ふわりと日々を過ごしたい。
瞑想は、心地よいものだ。
その最中には、常々、心地よさに顔を向け、けっして自分に何かを強いるようなことは、望まない。何かに集中することもない。様々に浮かんでくる考えや想像を雑念として無理に追い出そうとすることもない。チャクラも気にしない。神秘体験、至高体験なども望まない。印にもさほどこだわらない。
つまり、自分が瞑想する時には、瞑想の常識的な手法、約束事をほとんど使わない。ただ、足を楽にして座り、背筋を伸ばす。表面的には、ほぼ、これだけのことしかしない。
座り方は、椅子を使っても胡座でもいい。自分は左膝にちょっと問題があるので、半伽座に座る事が多い。背筋を伸ばすのは、これが最も体を痛めない姿勢だからだ。手はそれぞれ膝の上に置き、手のひらを上に向ける。仏像に見られるような印(ムドラ)を結びたければ、数多から馴染むものを選んでもいい。自分は、親指と中指を触れさせるのが好きなのでそうしている。
呼吸は、いつもより、ゆったりと行う。吸うよりも吐く方を長くとることで、副交感神経が優位となって、緩むことができる。ストレスの多い人は、呼吸が浅くなっているので、時々ゆったりとした呼吸を心がけると効果がある。
瞳は閉じる。坐禅などでは、半眼といってうっすら目を開けていることを勧めているが、自分は閉じた方が心地良いのでそうしている。
そして、後は座るだけになる。
曹洞宗の宗祖、道元禅師は、この座るだけの瞑想を「只管打坐(しかんたざ)」と名付け、坐禅の奥義とした。文字通り、ただ座るだけを理想として掲げている。
もちろん道元禅師の「只管打坐」の奥深さと、自分の生半可な瞑想を並べて語るつもりはないけれど、シンプルなものほど、奥深いのは何事にも言えることで、このただ座るというのは、実際やってみると分かるが、なかなか歯ごたえがある。次々に多くの雑念が心に浮かび、体もただ座り続けることに不平を訴え始める。ただ座りなさいと説く「只管打坐」は、瞑想の一つの到達点なのかもしれない。
そんな「ただ座る」を、自分は身の程知らずもあって、瞑想の出発点としている。そして、それは多くの人にとってそんな難しい事とは思えない。
これまで、多くのきっかけがあり、様々な瞑想法を体験してきた。高野山、セドナ、インド、タイ、東京、沖縄、鎌倉などなどで。様々な著作物にも影響されてきた。その結果、自分に一番合うと実感したのが、偶然にも「只管打坐」に繋がる、「ただ座る」だった。

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