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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#31 アーシング

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人は服を着る動物である。
暑さ、寒さ、風と雨、その他、外から身を守るために、服を着るようになった。それと同じくらい当たり前に靴を履く動物でもある。
進化の途中で、どうして体毛が無くなったのかは知らない。知性を豊かにする一方で、身体的な強度を失っていったのはなぜだろう。きっと理由があるのかもしれないし、無いのかもしれない。
とにかく、現在の人類は、地球上で唯一裸で暮らさない生物だと言える。そしてそれは人類にファッションをもたらした。何を着るかが、何を食べるか以上に意味を持つという人がいるほどに、それは輝きを持っている。その一方でファッションに関しては無頓着な人も実は多い。安くてそこそこ見栄えがよければ、なんだっていい、という感じだ。
それは靴にしても同じで、人類は一部の人を除いて、身を守り快適さを維持することを主な目的として、着て、靴を履く。
だが、メリットとデメリットというのは大概の場面で共存する。服や靴で身体を守る一方で、世界を直に感じる機会を極端に減らしてしまったことで失ったものもあるに違いない。
守られている安心感がある一方で、それを脱ぐ時の自由さ。裸足で公園を歩く時の、あの気持ち良さ、開放感、満ち足りた感じ、幸福感。あれはいったい何なのだろう。
水着で海や川に入る時の、あの嬉しさ、高揚感、夢心地、あれもいったい何なのだろう。
服や靴を脱いで自然と接する時に、得る、多幸感。それは人類以外が常に感じているものに違いない。なにせ彼らは常に裸なわけだから。
大地や水に直に接すること。その当たり前を失って、おそらく一生のほとんどを服や靴に遮断されるということは、本来必要な感覚を麻痺させてないだろうか?また逆に遮断されることによって新たに獲得した感覚もあるのだろうか。私はいつの頃からかこういう疑問を持つようになって以来、時々は意識的に靴を脱いで裸足で歩くようにしている。草や土を足の裏で感じる時、私は家に帰るような懐かしさをいつも感じる。人類というカテゴリーを超えて、ひとつの生物として、屋根と壁を持たない家に帰宅したような、切ない懐かしさと、親の腕の中にいるような安心を覚えるのだ。

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