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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#55 禅的生活

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 話を禅に戻すと、曹洞宗の総本山永平寺には二度参詣したし、道元の著作を齧ってみたりもしたが、入山する気にはついになれず、というのも団体行動が苦手というのが、理由として大きく、そもそもそんな輩が寺に受け入れられるとも思えず、鼻から真剣に考えられなかったのもある。言い訳として、せめて禅僧的な心持ちで一般人として生活をしてもようではないか、となんとなく考えついたのだろう。そういう訳で勝手な親近感を禅に感じつつ、禅語などを読み繋げているうちに、なんとなく禅的な、そうあくまで禅的なという程度のものだが、そういう感じが生活に溶け込んでいる。
 

 では、そのよくも言った禅的な生活とは、私の場合どんな感じなのか。


 起床時刻は、夏なら4時から5時の間くらい。割と目覚めは良い、まず、片付けや掃除をしたり、庭や菜園の手入れをする。この辺のことは、結構禅僧っぽいのではないか。そして瞑想を軽くする。掃除をしたあとで、血流が良くなり体も温まったところでの瞑想は、眠気に戻ることもなく心地よい。その後に軽い朝食となり、7時くらいからは早々と仕事に取り掛かるのである。
 写真の整理やプリント、原稿を書いたりするわけである。主な知的労働は午前中に終わらせて、午後は撮影にでかけたり、庭仕事や、家事などで体を動かすことが多い。
 昼食は質素なもので、さすがに一汁一菜とはいかないが、庭で採れた野菜を使うことが多い。今の季節だとゴーヤが毎日収穫できるので、それをいただく。
 禅僧の使う持鉢(じはつ)は入れ子状になった漆黒の3つの碗で、これが彼らにとって全ての食事用の器である。料理に合わせて器を選ぶのは、好食家の楽しみの一つだが、欲望を否定する禅では器も至極質素で、持鉢だけで十分とされている。自分もいつかは持鉢だけで暮らせたらと憧れているが、それは余生の楽しみとしよう。
 禅といえば、菜食の精進料理だが、現在私は肉も食べるので、禅的食事とはほど遠い。だが、食事を感謝することは、禅の作法を参考にしている。それは五観の偈と呼ばれていて以下になる。


1.この食事がどのようにして出来たかを考え、自然の恵みと多くの人々の働きを思い感謝致します。
2.自分の行いが、尊い生命と労力で出来た食を頂くに価するものであるか反省し、供養を受けます。
3.心を清浄に保ち、誤まった行いを避けるために、三毒である貪(貪り)瞋(いかり)痴(おろか)の三つの過ちを持たないことを誓います。
4.まさに、食は良き薬であり、身体を養い、健康を得るために頂くのです。
5.仏の道を実践するために、この食事を有り難く頂戴致します。  
                               曹洞宗少林寺のHPより。


 
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