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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#55 禅的生活

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 実際私が食事の都度心中で思うのは、五偈の1番であり、目の前の食事が私に届くまでの、生命の成長や運んだりしてくれた人の手を思いつつ、感謝をしてから食べるのは習慣となっている。思えば、毎食ごとに当然のように食事ができるのは、生命の犠牲とそれを扱う多くの人々の仕事があってこそである。それぞれの仕事によって生かされているのだが、最後にそれを食べる時まで続いてきたリレーを思えば、自然と感謝の気持ちが出てくる。米ならば、水田で稲から太陽の光を浴びて育った情景から始まり、収穫、脱穀、袋詰め、輸送、など数々の場面が思い浮かぶ、魚ならば、大海で悠々と泳いでいたのを捕らえられ、絶命し、冷蔵冷凍されて、運ばれてくる。それを一つ一つ丁寧に思い出していては、せっかくの料理が冷めてしまうので、すべての感謝を、ありがとうの一語にこめてから箸を取る。これだけのことだが、するしないでは、エネルギーの受け取り量が変わってくる気がする。
 すべての生活場面を修行とする禅では、食事も当然その範疇に入る。咀嚼や、器と箸が触れ合う音すらたてずに、静粛に淡々と無表情にいただき進める。歓談しながら和気あいあいと食事を楽しむとうことはなく、淡々と脱脂綿に水が沁みるかのようにだ。もちろんここまでは出来ないが、自宅で一人の時はその方向を向いて姿勢を正して淡々とやってみる。咀嚼によって食べ物の味に変化が生まれ、喉元を通り、胃へと収まっていくのがはっきりと分かるのだが、それを淡々と感じるままにしておく。


 感じるままにしておく。これは今現在のみに生きるという禅の大切な教えでもある。過去や未来に心を向けることなく、今に生きるということを説く。目的や理想すら持たずに、淡々と今なすべき事のみに集中し、その連続が一日となり、一生となるという教えである。


 目的や理想が、推進力となり魂を輝かすという経験を重ねてきている人がほとんどだと思うが、こうなりたい、こうありたいというのは、欲望であり、欲望は枯渇感と表裏であり、ストレスの源となる。とはいっても、私たちの生き癖をいきなり放棄するのは、ある意味で、出家する事よりも困難である。そう、困難であるからこそ、例えば禅を実践したりして、過度の欲望を持つ事を自ら戒めようとするのである。
 欲望には果てがない、とはよく言われるが、加齢や経験値の飽和感からか、ある頃になると、欲望にも果てがあることが場面によっては実感できてくる。自分のサイズに見合った生活が最も楽であり、惑わされないことに気づくことで、目標や妬みや嫉妬などからも解放されて、楽になってくる。若い頃は欲望でむくんでいた人も、久しぶりに会うと、なんだかいい感じになっていたりする。憑き物が取れたかのようにである。そういう人は、欲望をしっかりと持ち続け、達成し、処理できたタイプではないか。いわば、やり尽くした後での柔和さに至っているかのようである。止められない欲望に無理やり蓋をするのでなく、しっかりと取り組めば、やがて潮も引くというような例は、ある意味自然なことのような気がする。これは若い頃から高い志を持って出家し修行した僧と比べれば、かなり庶民的なルートだろうが、外道と蔑まれるほどのことではないと思う。

 

 
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