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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#56 守護霊

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 妄想と想像との違いは、明暗に関わらず、前者が現実生活に支障をきたす妨げになるのに対し、後者は現実を受け入れて生きていくことを励ます助力となる。守護霊、指導霊は、想像の産物だとしても、それを感じる人を支えてくれる。そう私は考えている。
 では、守護霊とは、いったい私たちを何から守ってくれているのだろう。人の一生には数々の不幸が訪れる。自らの命を絶つ人もいる。犯罪に手を汚してしまう人もいる。もし、誰にでも守護霊がいるのなら、彼らはどうして不幸になってしまうのか。なぜ守ってもらえなかったのか。当然そういう疑問を抱く。
 これは、神はどこに?という疑問の出先機関のようだ。
 不幸に見舞われた時に、人類は前後左右上下斜めを見回して、いつも嘆いてきた。「私たちの神はなぜ留守だったのか?」と。それに対し、神による試練だったり、成長するための苦しみ、だったり、カルマだったり、数々の説明がなされてきた。この場合も、それらの理由で語ることは如何様にもできるだろう。念のため、それらを端的に説明すると、因果律という考えを持ち出すことになる。悪いことをすれば悪いことが起き、善いことをすれば善いことが起きるということだ。これは守護霊といえども守りきれないとされている。これは文系というより理系、物理学的なことだと思う。全体として調和のためには、一方に動いた振り子が元に戻る法則のようなものだと私は捉えている。悪事をした者は、その悪分だけの不幸を引き受けることでバランスを取り、全体が崩壊するのを防ぐということだ。ここでいう全体というのは、宇宙全体のことであるが、宇宙とは私たちの周囲だけでなく、この心身の内側にも宇宙としてある。その宇宙の調和の持続のために個人に与えられている使命を全うさせるため、それを阻害する何かから守ることが守護霊の役割である。いわゆる不幸は因果律のせいであり、守護霊はむしろその因果律に沿うことを選ぶのである。もう少し付け加えるなら、個人の霊性を高めるため、それを邪魔する何かから守りはするが、因果律に関係することには、それが不幸をもたらすものでも関われないのが守護霊と言えるだろう。イメージとしては、そっと側でただ見守っている存在である。
 同行二人、という言葉がある。四国のお遍路などで有名だが、一人で巡礼していても、そばには空海さまがいつもいらっしゃる、ということだが、守護霊とはお遍路における同行者のようなものだと思う。



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