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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#52 ひまわり




季節は、一方向へ進んでいく。振り返ることなく淡々と、目的地があるかのように進んでいく。夏が終わり秋が来て、何か忘れ物を取りに行くように慌てて夏に帰るなんてことは起こらない。
ただ時々は、その歩みを遅らせたり、逆に早めたりすることはある。なぜか人間たちはそのことに妙に敏感で、今年の梅雨入りは遅いとか、真夏日が早すぎるなどと言っては、地球温暖化だとか、異常気象を口にする。神様にしたら、一歩程度の誤差でそんなに騒ぐなよ、といったところか。
 

その日僕は、リモートワークの合間に駅前の珈琲館で、わざわざ40分かけてやってきてくれたゴードンと、2時間ほど雑談を楽しんだ。
ゴードンはリモートでヨガと英会話を教えているアメリカ人の32歳で、日本語を上手に扱う。自称6フィート3インチの長身で、カレッジ時代はオレゴンでアメフトに熱中していたというだけあって、ガッチリとしていた。
ただ強面なのは体だけで、長めの柔らかな金髪はゆるやかな癖っ毛で、薄い黒縁のメガネの奥には、繊細な青い目があって、体と顔のアンバランスのせいもあり、人目を引く風貌であった。マッチョなボディに若かりしブラピ顔が乗っているという表現は、少なくとも方向は合っている。
そんなわけで、ゴードンは女の子にモテるのだが、本人曰く、「ボク、ミセモノとして価値アリマスヨ。トモダチに紹介するとヨロコバレル。ミナサン、カッコイイ、言いますね。でも、ツキアウのとちゃいます。ただ、ミルダケ好き。ミセモノね」
僕とゴードンは珈琲館で、生成AIについて割と長めに意見を交換し、僕が楽観的な立場を取るのに対し、ゴードンは悲観的というか否定的というか、少なくとも慎重に扱うべきだという側であった。それぞれ論理的に語ることに努めたが、最終的にはそれぞれの個人的なものを含めた文化的背景からの感想であり、期せずして、それぞれが自分という人間を露出することになった。
僕は楽観的と言えば聞こえはいいが、面倒なことは放り出すタイプであり、ある意味でのずぼらさは歴代の彼女から嫌われる部分であった。ゴードンは、逆に常に用心深く慎重なのだが、ここぞという時は開き直って快活に前進するタイプで、勝負論のあるスポーツ競技には向いている。
そんな性格の違う僕らがよく使う口癖が、「全ては後戻りできない」であった。それはマクロでは地球や人類の進化のことであり、ミクロでは恋愛のことであった。
失敗には、訂正や謝罪を用意できる。でも、それは小さな楔となることすらできない、句読点ぐらいの効力しなかい。起きてしまったことは、元に戻らないし、そういう事実は厳粛なものだ。


ゴードンを駅の改札で見送った後、僕は駅前に立つデパートを2軒巡って、書店と古着屋で買い物をした後、再び20分歩いて自宅に戻った。
仕事に再び戻る前に30分だけ休憩しようと決め、庭にアウトドア用の折り畳み椅子を出して、その長めの背もたれに上半身を深くあずけた。手には青森県産リンゴジュースというのが定番で、スマホも本も持たずに、ただぼんやりと庭を眺めていた。
冬には様々な野鳥が訪れていた僕の庭だが、近頃めっきり鳥の姿を見かけなくなっていた。


メジロ、シジュウカラ、ヤマガラ、コゲラ、アオゲラ、キジバト。それらは渡鳥ではない留鳥なのに、春が来るとめっきり庭に現れる回数が少なくなった。食料の乏しい冬には、わざわざ人間に近づいて餌をもらおうとするけれど、春になれば、新芽や実などの餌が増え、リスクをおかす必要もないから仕方がない。





冬の間、僕は、早朝から食事をせっせとする鳥たちに合わせて早起きし、ペットショップで買ってきた野鳥の餌を庭に撒くのが習慣だった。キジバトはトウモロコシの乾燥した実を好んだが、僕の好きなシジュウカラやヤマガラは、雑穀が好きではないらしく、食いが細かった。
僕は2駅離れた場所にある行きつけのコーヒーショップに相談した。そこの主人は愛鳥家で、店内の壁には鳥の絵が図鑑にあるような精緻さで描かれていた。その雰囲気は、さながらイギリスのバードマニアの隠れ家の趣があり、コーヒーにもこだわり過ぎていない気楽さがあって、僕は週に一度くらいのペースで通っていたのだ。
だが、そこの主人と鳥談義をしたことはなかった。彼はなんとなく寡黙さが顔や仕草に滲み出ているようで、少し近寄りがたかった。年齢は60ちょっとぐらいに見えた。定年後に趣味で始めたとするには、店はそれなりの年月を経ているようだったから、定年前に週末だけやっているような店だったのかもしれない。そんなことを想像していたりはしたが、話したことはなかった。
しかし、ある日の会計時に、なんとなくその店の庭先に来ている鳥の話題になり、その流れにのって自然と餌についての質問ができた。店主によると、シジュウカラやヤマガラはひまわりの種をよく食べるという。その辺のスーパーにも売ってるからと教えられ、さっそく帰りに寄った。
小鳥コーナーの横にあるハムスターなどの餌としてひまわりの種は売られていた。店主が言っていたとおり、そんなに高くはなかった。僕はひさしぶりに本当に欲しいものが買えたような気がして、小躍りする気持ちで支払いをした。


翌朝、僕は一握りのひまわりの種をキジバト用のトウモロコシの横に置いてみた。そして、一旦家の中に戻り、リビングの中から庭を眺めることにした。
5分も待たずに、まずシジュウカラがやってきた。こういう時には、偵察係なのか、1羽のみがやってくる。その最初のシジュウカラは、すでに隣接する公園の樹々の上から狙いを定めていたのか、ひまわりの種のところに1直線で降りてきて、1つを咥えると、元来た方へと飛び去った。その動線をなぞるまでもなく、公園の落葉後に丸裸になった木枝の上で、ひまわりを突いている姿がつぶさに観察できた。なるほど、まずは安全な場所まで持ち去ってから、殻を割って中身を食べるのか。
それは言葉にすると当たり前なのだが、何も知らないところから初めて知ってみると、小さくはない驚きがあった。
最初の1羽がひまわりの種を得たことを周囲の同胞たちが見守っていたのだろう。それからぱらぱらと降るかのように、四方からシジュウカラがやって来た。そして、それぞれに目当ての実を持ち去っていくのだった。
ひまわりの種を枝の上でつっつく時には、意外と大きな音が響く。すべてのひまわりの実が持ち去られたのを見計らって、追加を与えようと庭に出ると、その乾いたつっつく音が四方から響いていて、彼らからの歓迎を受けているようだった。
食べ物を与えるというのは、全ての生命に組み込まれた愛情表現だとは言い過ぎだろうけど、その時僕は母性のような暖かい感情を得た。自分の手から直接ではないにしても、与えた食べ物を鳥たちが喜んで食べている。そのことが単純に楽しくて、嬉しかった。





後日、ゴードンにその始終を話すと、思いのほか興味を持ったらしく自分も見てみたいというので、ちょうど夕方に差し掛かった頃でもあったので、そのまま自宅に来てもらった。鳥は朝夕2回食事をするので、ちょうど餌やりができるはずだった。
ゴードンは、僕の家や部屋にはまったく興味を示さず、一刻も早く餌やりをしたそうにだったので、すぐに庭に案内した。
リスのイラストの描かれた袋と、鳩が描かれた袋とを持って、僕が支持した場所にひまわりの種とトウモロコシを置いた。そしてそのまま、少し離れた庭の隅に2人は座って待った。座るものが無かったから、地べたに膝を抱えて座った。僕は168センチ、ゴードンは193センチ。そんな2人が少年のような眼差しで空を眺めていた。


それまで僕は朝の餌やりしかしたことがなく、夕方に鳥が庭に来るのかは半信半疑だった。彼らにしてみれば、我が家の庭は、朝食専用のテーブルなのかもしれなし、そうだとしたら、ゴードンはがっかりするだろう。
僕は鳥見物よりも、ゴードンを喜ばせたい一心で、首をあちらこちらに回して、鳥がやって来るのを今か今かと待っていた。
僕に比べてゴードンは落ちつていたようで、小さな声で、「見たい、みたいにすると、動物たちは、コワイね。気にしないで、いること、これ、タイセツ」と言った。見たいという念が強いと動物は危険を察知して出てこない、という意味だと解した。
30分ぐらい待った頃になって、ようやく最初のシジュウカラが降りて来た。ゴードンは、ふふっと微笑んだような小さな声を出した。ひまわりの種をキャッチして空へと舞い戻る様子は、それだけ見ても可愛い。さらに間を置いてから、いつものように次から次へとシジュウカラがやって来た。中にはヤマガラも混じっていた。
餌が無くなる頃合いで、僕たちは追加した。しばらくして、キジバトもやって来て庭は賑やかになった。ただ、キジバトが庭に降りている間はシジュウカラなどのサイズに小さい鳥は木の上にいた。キジバトは案外性格が悪く、ひまわりの種を食べないくせに、シジュウカラを威嚇して追い払うのだった。
ゴードンはかなり満足して帰っていった。ちょうど前日作った南インドカレーの残りがあったので、ベジタリアンのゴードンにはうってつけかと思い、家での夕食に誘ったが、約束があるからと丁寧にお礼を残して去っていった。


僕はそんな冬の日のことを思い出しながら、春の庭でぼんやりしていた。
ぼんやりすることは、精神衛生上とてもいいらしい。しばし思考から逃れて時間の中を漂うだけで、脳と身体が休まるらしい。もちろん僕は、そういうことではなく、ただぼんやりしていた。
すると隣接する公園に黄色い花が咲いているのに気づいた。なんだか春には見慣れない大きさの黄色い花だと思い、立ち上がって近づいていくと、それは意外にも向日葵の花だった。向日葵といっても種類は結構あるとは知っていた。目の前に見えている向日葵はずいぶん小ぶりなものだった。だが、それは間違いなく向日葵だった。
なぜ?と問いかけてすぐに答えがわかった。あれはシジュウカラが食べ損ねて枝から落とした種から芽生えたものだ。僕はゆっくりと向日葵に歩み寄っていった。一歩ごとにその瑞々しい花のディテールが解像度を増していった。花びらは柔らかく、しなやかで、繊細で、美しかった。夏を待たずに、この場所で、季節は少しだけ早送りされたのだ。
スーパーで買った種が、シジュウカラに運ばれて落下し、発芽して成長して、やがて種をつける。その循環をゆっくりと僕は心の中に沁み込ませていった。


ゴードンに連絡して向日葵の花のことを伝えると、明日夕方見にいくという返事だった。夕食一緒にどうかと誘うと、南インドカレーをよろしくということだった。じゃあ、今夜作っておかなくちゃな、と冷蔵庫の中を想像した。





藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。


#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
#24 南極の石 日本の空
#25 縄文の初恋
#26 志織のキャップ
#27 岸を旅する人
#28 うなぎと蕎麦
#29 その部分の皮膚
#30 ZEN-は黒いのか
#31 ブラジリアン柔術
#32 貴様も猫である
#33 君の終わりのはじまり
#34 love is not tourism
#35 モンゴルペルシアネイティブアメリカン
#36 お金が増えるとしたら
#37 0歳の恋人20歳の声
#38 音なき世界
#39 イエローサーブ
#40 カシガリ山 前編
#40 カシガリ山 後編
#41 すずへの旅
#42 イッセイミヤケ
#43 浮遊する僕らは
#44 バターナイフは見つからない
#45 ブエノスアイレスのディエゴは
#46 ホワイトエア
#47 沼の深さ
#48 ガレットの前後
#49 アメリカの床
#50 僕らはTシャツを捨てれない
#51 客観的なベッド

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