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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#34 短歌

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ツイッターであげている自作からの抜粋だが、難しいことを言おうとせずに、心のままを写している。そう、写すという字を当てたように、写真に似ているとも思う。写真と決定的に違うのは、見えないものを心の目で見えるように立ち上げるということ。もしくは、心では感じられていたものを、言葉によって形を与えるということ。写真と結びつけるのは、ちょっと強引な気もするけど、重なるところはやはり多いと思う。心のシャッターで言葉を引っ張り出す感じだ。

話を少しヒーリングとの関係へと戻そう。

繰り返しになるが、私が思うに、歌を詠むことは、言葉の断捨離であり、言葉を選ぶということは、自分の本心へと向き合うことに繋がる。

日常生活では、右を向いても左を向いても、言葉が溢れすぎているように感じる。余った空間や時間は、埋めなければいけない空き地のように言葉で埋め尽くされている。そしてそれらの多くは、過剰な刺激物であるか、意味の全くない音や文字で出来ていて、知らずのうちに、私たちに混乱と疲労を与えていて、ストレスを生んでいる、と私は思う。

ヒーリングはストレスを除くことから始まることを思えば、意図的に外部からの不要な言葉をブロックするのは、ひとつの方法だろう。だが、それは耳を塞いで生きるようで、現実的には難しく、ならば無駄に入ってきた不要な言葉たちを断捨離することで、調整ができないだろうか。そう考える。

溢れている言葉は自分の周囲の外だけでない。多くの人は、喋りすぎだし、記し過ぎだと思う。言葉は、自分の内側にも溢れている。冗談を言い合って笑うのは良いことだ。他人としっかりと向き合って意見を交換することも意義がある。他にも大切な会話のために言葉を費やすことは必要だ。だが、それ以外の場面で、心の空き地を言葉で全て塗りつぶす必要はないと思う。言葉を接着剤のように使って、絶え間無く他人との関係をつなぐのは、もったいないと思う。言葉は道具でもあるが、その人の心と直結した命が宿っていると私は思うからだ。

絶えず喋っている人よりも、美しい沈黙を持っている人の方に私は惹かれる。間がある人の、その間とは、相手の受け入れる容器でもあるからだ。


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