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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#43 巨木に会いに

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神社の多くが御神木を有するように、日本人は昔から巨木に対して頭を垂れてきた。


 清められた神社内の静謐な息吹の全てが、御神木から溢れているような感じさえするその佇まいは、僕が神社を尋ねる楽しみの筆頭とする美しさに溢れ、早朝や夕暮れなどの、昼夜の境に訪ねれば、枝や葉のひとつひとつに妖精が見えるようである。
 神社の巨木は神が降りてくる依り代として敬われているが、巨木そのものが神とも言える。最近は囲いのために触れない御神木が多くて残念だが、触れれば、木という生き物が、いかに多くの知識を蓄えた賢者でるかが感じられる。そう、巨木は賢者なのだ。
 樹齢二百年の巨木は、人間の尺でいえば、約7代ほどが入れ替わる時間を生き、約二百回の夏を経験している。僕の想像が及ぶのは、精々二世代前くらいで、祖父の幼年期を写真などを頼りになんとか辿るのが精一杯である。それ以前は五代前も十代前も一緒である。想像が及ばない。
 だが二百年生きた木は分かっているのだ。二百年前に起きたことが。古い記憶を持っているというのは、経験値が高いということ。年老いた賢者はいるが、幼児の賢者はいないように、経験量は賢さに繋がっている。もちろん処理能力、学習能力には個人差があるので、一概には断じられないが、人間の数倍も生きている木は、まず賢者だと僕は考えている。というよりも、触れれば感じられるのだ。手の平から伝わるその力には、深い知恵と観察眼があることを。
 僕が健康そうな美しい木を好み、必ず触れるのには、師に教えを請うのに似ている。言葉を介さずに伝わる何か。言葉を介さないからこそ伝わる何かに常に心身を開いておきたいと心に置いてある。それは、人間以外の知恵と繋がっておくことで、自分の調和を保ち、心身の健康を気遣うことになっている。
 不調の時には、進んで人混みに入っていかないのは、そこがきついからで、入院中に来客が多いのも同様に疲れる。それは気を使って疲れるというのもあるが、それ程親しくない同種、近種というのは、本来程よい距離がないともたないと僕は思う。人といるよりも猫を撫でている方が休まるというのも、それに当たる。どんなに恋人どうしでも、四六時中触れ合っていては、何かが壊れてしまうのだ


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