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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#61 所作 

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 所作の美しい人が、美しい。最近しみじみとそう思う。
 

 電車内や歩道で、つい目が止まってしまうのは、背筋がすっと自然に伸びている人ばかりだ。容姿や服装が格別秀でているわけでもないのに、群衆の中で静かに目立っているのである。
 写真家という仕事上、多くの人をファインダー越しに見つめてきたが、いわゆる見られることを仕事にしているモデルや俳優の方々は、さすがに姿勢が整っていて、こちらまで背筋が伸ばされてしまう。だが一般の人々の中にも姿勢の良さでは引けを取らない人も見受けられ、それは結構稀な例でもあるから、おのずと目立つのだ。
 そういう人を見かけると、自分の姿勢のふがいなさを素直に反省する。背筋を伸ばし肩の力を抜いて颯爽とコピーし始めるのだが、まあ、半日ともたない。気づくと足を組んで座り、テーブルや机に肘をつき顎を乗せていたりする。
 姿勢。こればかりは一夕一朝では身につかないようだ。それだからこそ、姿勢の良い人を見かけると、目が奪われてしまうのだろう。
 人のせいにするわけではないが、姿勢という点だけでいえば、現代の日本人のそれは江戸時代の人々に劣るのではないだろうか。目に映るものの影響力を考えれば、姿勢の悪い人ばかりに囲まれていては、基準値も下がってしまうというもの。姿勢の悪さを咎めない世相のせいにするわけではないが、せめて自分こそは姿勢良く在りたいという願いの根は、いったい何処にあるのだろう。見栄えを気にする虚栄心なのか。それも皆無とはいえないが、おそらく正しく健康で在りたいという生物的な本能に属したものではないか、と思う。
 

 だが、私が惹かれるのは、単に姿勢の良さだけではないようだ。佇まいと言えばいいのだろうか。その人が内側から醸し出している何かが、私の注意を捉えるのだと思う。心の整いが、身体の整いとして現れ、姿勢を美しく見せている。そういう状態の人に惹かれるのだ。
 日本語には、所作という言葉がある。品の良い、優雅な立ち居振る舞いをいうのだが、ある年齢に達し、物を見る目を程々身につけてしまうと、形ある物への興味や執着は落ち着き、それにとって代わるように形を持たない美しさ、形あっても止まらない美しさへと興味は移ろうようだ。
 所作もその一つで、自分の人生に折り目をつける頃に、人として美しく在りたいという願望を叶える一つの方法として現れる。どんなに素敵な服を纏い、趣味の良い品々に囲まれ、話題のレストランで食事をするとしても、その人そのものが、それにそぐう品性と所作を身につけていなければ、とても残念である。



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