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text by haru.
photo by Mariko Kobayashi

haru.『たたかう女は食う』現在編



最近よく「たたかう」という言葉を口にしている気がする。
私は戦士で、日々いろんなことと戦っているのだ。自分との戦い、女性としての戦い、表現者としての戦い。
ここ数年は「無敵そうだね」と言われることが多い私だけど、共鳴する映画のヒロインたちはいつだってどこか冴えなくて、自分に自信がない人ばかり。人との付き合い方もへたくそ。けれどそんな彼女たちが自分に失望することを繰り返しながらも強くなっていく姿は、完璧なヒロインなんていなくていいんだと思わせてくれる。
毎日の戦いで疲弊して、どうしようもなく悲しくなっても、私たちのお腹は減るようになっている。不思議なものだなあ。悲しくて苦しくてもお腹が減る。

「最強でも無敵でもない自分さん、こんにちは。ひとまず腹ごしらえでもしましょうか。」





vol.2 現在編『ドーナツは風の通りみち』


まず、この「たたかう女は食う」の過去編『ちゃんとおにぎり』を読んで私に気持ちを伝えてくれた方々に感謝している(もちろん読んでくれたすべての人たちも)。
「自分と向き合ってみるきっかけになった」この一言に、私がどれだけの勇気をもらったか。本当にありがとうございます。


私自身も意識的に小さな変化、というか気付きがあった。インスタグラムのDMで感想をくれたジェンダー・フルイド(性自認・性的趣向が流動的)の方の体験記を読んで、自分に重なるところがたくさんあったのだ。
いつだって私は「私」として魅力的でありたくて、「女性」としてではない。かといって「男性」になりたいわけでもない。それは汚いオーバーオールを着ていようが、大きくスリットが入ったワンピースを着ていようが変わらない気持ちなのだ。最近は髪をばっさり切ってショートヘアになった。自分のグラデーションが広がった気がして、とても気に入っている。


性別に関係なく、自分が可能性を感じたものになるための努力をする権利は、すべての人が生まれながらにして持っているはずだ。まだまだそれがシステム上で成立していないからこそ、私はフェミニストを名乗り活動している。私の気持ちを最優先させたら、この企画名も「たたかう私は食う」だったかもしれない。
女性国会議員比率が193ヵ国中165位という現実があり、家では女は女らしくいなさいという教育がなされ、ピルを飲んでいるだけでビッチと言われる(なんだって言わせておけばいいけど、それのせいでピルを選択肢から消してしまうのはあまりにもったいない。生理痛やPMSの改善、生理周期を整えるなど様々な効能があるんだから)。雑誌ViViが自民党のPRとしてコラボTシャツを発表した件も、言葉にできないほどの憤りと絶望を感じた。ViViは小学生のときから中学生まで毎月買っていた雑誌で(このころ毎月とんでもない量の雑誌を買っていた)、埼玉の田舎に住んでいた私にとって学校以外の世界は雑誌の中だけだった。メディアとして政治をもっと「自分ごと」として捉えようと発信するのは重要で意義があることだけど、信念の感じられない今回の企画を私はどうしても受け入れることができない。こんなことで私たちを取り込めるとでも思ってるのか、と政治家たちにも言いたいところだけど、そう思っているからこそこんな企画が通ってしまったんだろう。きっついなあ。
女性というだけで権利や可能性を摘まれる可能性がある限り、私は女性としての自分を少しだけ強く意識して闘わざるを得ないのだと感じる。未来の自分のためにも。




さて、今回の現在編で私が自分を投影した女の子は映画『百万円と苦虫女』(2008年)の蒼井優演じる主人公、「鈴子」だ。
就職に失敗してアルバイト生活。気がついたら前科持ちになり、実家を出ることを決意。百万円貯まったら街から街へと転々とする鈴子の姿を描いた物語だ。村八分にされる可能性があるのに彼女を助けようとするピエール瀧演じる桃農家など、彼女をとりまく人間たちも尊い。就活で悩んでたり、ちょっと逃げ出したい、そう思っている人に気軽に見てほしい。


シャバダバシャバダバ〜と呟きながら出所する鈴子のシーンでこの映画は幕を開ける。ひょんなことから鈴子は友達の「元カレ」とルームシェアを始めるのだが、鈴子が拾った子猫をその男が勝手に捨てたという理由で、鈴子はその男の所持品を全て処分してしまう。
「その男とセックスしたの?」警察の取り調べに対して頑に否定する鈴子。そりゃそうだよね、セックスしてないんだもん。でも、もししてたら民事訴訟にできたらしい。「……しときゃよかった」と鈴子は肩を落とす。セックスに過度な期待も幻想も抱かせないこの感じ。初めてこの映画を観た18歳くらいの私(まだバージン)にはいい意味ですごくひっかかった。セックスすることもしないことも、私たちの自由。


ここからちょっと私、ハルの話を。
私は今年の3月に東京芸術大学の先端芸術表現科という科を卒業した。学内でも比較的新しくできた科で、現代アーティスト志望の人はもちろん、女優や映画監督の卵、いろんな子がいた。
同じ科の大学院を受験したときのこと。私の横にはスーツ姿の同級生が神妙な面持ちで自分の名前が呼ばれるのを待っていた。知らない人みたい、と思った。
面接室には教授陣たちが集結していて、唯一の女性のキュレーターの先生はその日いなかった。
大学院に入ったら何がしたいか聞かれて、この学校でジェンダーの問題が取り上げられるようになったのは最近の話だし、作品をつくる上でももっと勉強したいと思っている、と言うと「ジェンダーねえ。本でも読むの?(笑)」との答えが。ひゃあ。この空間を見て、先生。この状況がけっこういろんなことを物語っていると思うのだけど。
「なんでそんな遠回りするの?君のやっていることはよくわからないよ。」4年間で10分ほどしか話したことのない先生が言う。「でも先生、先生は私のこと最初からわからないって言ってましたよね。」まるでこの一言が合図だったかのように、私と先生たちの交信は終了した。沈黙。窓から差す光が美しい、と思ったような気がするけど本当にそうだったかは忘れた。
「他に質問のある先生はいらっしゃいますか?」
先生たちは静かに椅子に植わったままこちらを見ている。思わずうつむくと、買ったばかりのペンキ加工が施された自分のジーンズが目に入った。めっちゃかわいいパンツだな、と心の中で呟いた自分にちょっとあきれつつ、これでいいんだとも思った。


受験にはもちろん落ちた。芸大生という呪縛から解かれた、ただのハル。合否発表の日はかつてないほど開放的な気持ちで、自分はなんにでもなれる気がした。東京なんて出ちゃおうか、とも思った。


気がついたらあれからもう3ヶ月が過ぎていた。
結局私は旅に出る訳でもなく、会社の役員になった。


物語の中盤で鈴子の恋人となる中島くん(森山未來の素朴さがいい)に、百万円を貯めていろんな街を転々としていることを話す鈴子。
「自分探しってことですか?」という問いに対して彼女は言う:


「むしろ探したくないんです。(中略)探さなくたって、嫌でもここにいますから。」


たとえ訪れた土地の人が自分を歓迎してもしなくても、大好きな人とお別れすることになっても、百万円さえ貯まればいつだってどこにだっていけること。鈴子は何度も自分の自由を確認し、人と関わることからは逃れられないことを知っていく。


私たちは一人では決して生きてゆけなくて、どこかしらの環境に身を置いてる。そのコミュニティから逃げ出したとしても、私たちはまたどこかの環境に順応しなくてはいけない。「完璧な自由」なんてあるわけなくて、そのときどきに生きるコミュニティの中でどこまで違和感を感じて、それにどれだけ向き合っていけるか。私にとって自由でいるってそういうことなのかもしれない。
いつだって既存のシステムから逸脱しなければ自由が得られないってことは、その中でいわゆる「成功者」と呼ばれる人たちは本当の自由から遠のいているのかしら。


私も自由になった気がしていた。でも肩書きとはやっかいなもので、何をするにも「ハイアーのハルちゃん」であることには変わりないし、きっとこれからも変わらないのだと思う。
会社という組織の中での自由とはどういうことだろう。会社に属したらインディペンデントとは言えないのか。いや、そんなことはないはず。組織の中でこそ「個人」であることが保障されていなければいけない。自分の目で、体で確かめなければ。
理想の職場があるなら、自分でつくればいい。なめてるとか、どうせ大人の力を借りたんだとか言う人もいるだろう。でも今の私には響かない。だってもう決めちゃった。実際に大人の力を借りてるし、それは自分が招き入れた幸運だから。


何事も自分の目で確かめたい私の、新しいプロジェクト。
会社としては、私の周りにいる表現者たちと一緒に、より社会に作用する力を意識して活動の幅を広げたいと思っている。ヨーゼフ・ボイスの言葉を借りれば、「社会彫刻」をすること。アーティストを「管理」するのではなく、それぞれが得意なことを最大限にできる環境づくり。ハイアーでやっていることが、自分の周りにいる未来をつくっていく人たちの活動のアーカイブを残すという行為だとしたら、それを誌面から立ち上がらせたいと強く思ったのが、会社化しようと思った最初のきっかけだ。そして私の活動でもあるプロデュースやディレクションの仕事。ひとまず今は、これらの二つの軸でやっていこうと思う。ハイアーは私のライフワークとして、今までと変わりなく続けていく。
これができるのも、私を支えてくれる人たちあってこそなのだ。一人では何もできないことを今日も何度も思い出す。


今回私が撮影したのは、鈴子が恋人を置いて街を去る最後のシーン。
悩んで悩んで、溜めていた涙を流しきった清々しい朝。口にくわえているのは風通しのよい食べ物、ドーナツ。


人生いろいろあるけど、thank you, next.


明日もあなたがあなたらしく過ごせますように。






MOVIE – produce Reita Tanaka(TORIHADA) direction / casting haru. camera / edit Kazuki Ikegami title graphic Mariko Kobayashi
STILL – direction & text haru. photography Mariko Kobayashi

haru.
1995年生まれ HIGH(er)magazine 編集長 

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