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text by Ryoko Kuwahara

ドラマの役割は現実をあるべき未来に導くこと。Kotetsu Nakazato&綿貫大介『SEX EDUCATION』談議 (2)




2019年にシーズン1が放映されるやいなやユースの圧倒的な支持を得て全世界で旋風を巻き起こしたNetflixオリジナルシリーズ『SEX EDUCATION』。ムーアデールという架空の町の高校生であるオーティスとメイヴが学園内でセックス・カウンセラーを行うという内容は、突拍子もないようでいて、ティーンネイジャーの悩みや様々な視点をリアルに浮き彫りにし、さらには子どもの周辺の大人がどんな背景を持ち人格形成されてきたのかなども伝える、社会学のような緻密で壮大なナラティヴである。思わず笑ってしまうようなユーモアも随所にありエンタテイメントとしての強い磁力を持ちながら、LGBTQIA +の人々がなんの注釈もなくシスヘテロの人々と同様の生活を営み、様々な関係の中でオープンコミュニケーションがなされているこの町の物語はどれだけ多くの人々をエンパワメントしているかしれない。2021年9月、待望のシーズン3がリリースされたことを祝し、Kotetsu Nakazatoと綿貫大介が『SEX EDUCATION』への溢れる想いを全3回にわたり語らいあった。


1はこちら https://www.neol.jp/movie-2/110527/

シーズン3:“自分”がいると思えること


Kotetsu「シーズン3のカルは今までの人生の中で初めてKotetsuが出てると思えたキャラクター。今までは異性愛者だったりシスジェンダーの人にKotetsuが解像度を合わせたりピントを合わせたりといういろんなハードルを超えてやっと自己投影できてたんだけど、カルはパッと観て自己投影できて感情移入できた。ああ、みんなはこういう風にドラマとかを観ていたんだ、ズルいと思ったんだよね。チョー楽だし、感情移入どころじゃなく、“自分”がいることで、自己を肯定したり言語化ができる。さらにノンバイナリーとして恋愛をする面での生きづらさとか学校などの組織の中で男女二元論で分けられてしまう苦しさを描いてくれたこともすごく嬉しかった。古臭くない、今のノンバイナリーのことをちゃんと伝えてくれてる。


特に7話目でカルとジャクソンがセックスするかとなった時に、胸を触られて、やっぱり女性として意識してるんだなと思った時のセリフ。日本語では『付き合うんだったら君もクィアになる』とあったけど、英語だと“If this was going to become more serious, then you’ll be in a queer relationship.”で、言葉の言い回しがすごく優しくて。クィアなリレーションシップになるよというのは本当にそうで、その確認が必要なんだよね。あの二人はカルが周りから見た性のままだと異性愛カップルにしか見えない。だから、あなたは普通のカップルとして見られると思ってるかもしれないけど、私はノンバイナリーだから私と付き合うってことはクィアな関係になると言うことだよ、それを理解してる?という確認をしなきゃいけない。Kotetsuの場合も、これはゲイカップルじゃないからね、もっとクィアなリレーションシップだよという確認をしなきゃいけないんだよね。それがちゃんと描かれてた」


綿貫「あのシーンは自認する性とは違う性別として好意を受け取るとはどういうことなのか、そのことまで考えられるようになってたよね」





Kotetsu「うん。今回のカルへの自己投影体験をして、やっぱり今のエンタテインメントにおいて、描かれてない存在が沢山いるんだということも改めて分かったんだよね。だから自己投影できる人たちが少なくなるし、感情に共感する力も働きにくくなるんだろうなって。そういう意味でもキャスティングはとても重要だなというのも改めて感じた。ノンバイナリーのキャラクターが出てきたことももちろん嬉しいけど、それを実際にノンバイナリーの人物が演じていることでそのキャラクターへの思いが増すし、一つ一つの言葉に対して嘘がなくなる。日本でもクィアなキャラクターが少しずつ出てきはじめてるけど、それを演じてるのは、カミングアウトしてない人もいるかもしれないけど、シスヘテロとして役者をやってる人が圧倒的に多い。それを観ると、結局クィアは誰かに演じられる“キャラクター”でしかない、この世界に生きる人ではなくてお話の中に出てくるファンタジーのキャラクターとしてしか認知されていないと感じてしまう。でもイシヅカユウちゃんが『片袖の魚』でトランスジェンダー女性を演じたりしてるのも観てるから、日本でノンバイナリーの役を出すときにはKotetsuに頼みな!って切実に思った。シスヘテロの人たちに演じて欲しくない」


綿貫「ユウちゃんはトランスジェンダーの役でテレ東のドラマ(『シェフは名探偵』)にも出てたけど、(鈴木)みのりさんが監修に入ってたからちゃんと描かれていたし、ドラマとしても成立しててよかった」


Kotetsu「でもまだ日本では話のトリガーとしてクィアが出てくるんだよね」





――最近の作品では『マスカレード・ナイト』もまさにそうでした。観る層の認知も進んでないから問題にもなってないのが余計に辛いです。


綿貫「キムタク、パンフレットには普通に『ホテルマン』と書かれているところを取材などではちゃんと『ホテルスタッフ』と表現していたと聞いて、さすがだなと思っていたのに、作品自体がそうなってしまっていたのは残念……。2020年代にしては映像分野はちょっと進化が遅すぎる。シスヘテロが演じるなら余計に制作前の教育は大事で、タイのBLドラマなどはちゃんとそれをやってるんですよ。だから演じた人たちが未だにプライド月間に声をあげたり、今年の同性間のパートナーシップ法制定の時にSNSで発信したり、役だけでなく人間としてもエンパワメントとするような行動をとっている。日本の俳優はそこに口を出さないし、役は役で、その時だけ相手に『恋しました』みたいなことを簡単に言ってしまう」


Kotetsu「そんなことでよく演じられるなと思うけどね。知識や現状の法まわり、その人の背景やいろんなしがらみとかを理解しないでなぜ演じることができるのか。森崎ウィンくんの『ジェイミー』のインタビュー記事とかは、すごくちゃんと向き合っててよかったし、そういう姿勢は演じるにあたっての必須条件だと思う」


綿貫「森崎くんは過去にインタビューした時にもすごく勉強されてるなと感じた。それに例えばBLを好きな人も、同性愛を消費してるんじゃないかという負い目を感じていながら、ちゃんと勉強してアライになっている人も多い。そこにコンテンツの進化が伴わないと観てる人の知識とのギャップができて気持ち悪いものになっていくような気がする。
その点『SEX EDUCATION』はそんな心配はないし、そんなの聞きたいわけじゃないという説教ムービーにもならずにちゃんとエンタメとして成立してて、その中で伝えたいことをうまくわからせてくれるから観てる方も楽。3では、エイミーとメイヴがお互いのママになるという言葉の表現も本当に凄かった。ママという存在は友達とはまたちょっと変わってくる。口うるさく言ってもいい権利もあって、なんでも言いあえて忠告もできて叱れる。そこまで高められる所にいるんだという表現があれなんだよね」





――まさに選択家族でしたね。


綿貫「そうなんですよ。男の子に関しても、みんなちゃんと自分の弱さを出せる子たちだというのが凄い。友達同士でも強がったりホモソーシャル的になりがちだけど、当たり前に弱い部分を晒している。だから見ていて変に辛くならない。そこにもオープンマインドというのが効いてると思う」


Kotetsu「アダムはお父さんの影響もあってまだ自分の弱さを出せてないけどね。オーラやエリックとのコミュニケーションとかでそこを解放していってるけど、シーズン3の最終話で、犬のコンテストで賞を獲れなくて、『父さんに結果は言わないで、また失望される』と言って終わっちゃうのもアダムの中にお父さんが与えてきたトクシック・マスキュリニティ(Toxic masculinity/有害な男らしさ)が残ってるんだなと感じさせた。お父さんの中にもそれは強くあったしね」


綿貫「アダム家の男たちが脈々と『男らしさ』による害を与えたり受けたりしていたという描き方もすごく上手い。お兄ちゃんもお父さんに認められたいから弟であるエリックを攻撃しちゃうという構造をしっかり見せてて、きっとこれはどこにでも起きる構図なんだと思った」


Kotetsu「アダムがシーズン1でエリックに言っていたり、していた行為とすごく繋がってる」


綿貫「確かに!」


Kotetsu「構図、構造をちゃんと見せてくれてるのは本当に素晴らしいよね。トックシック・マスキュリニティがあるせいでこういう影響を与えてる、苦しい思いをしてる男性たちがたくさんいる。その害によって多くの女性が傷ついていたり、大切にしたい人を守れていないというのがちゃんと理解できるように描かれてる」


綿貫「いろんなジェンダー、セクシャリティの人みんながそれによって傷ついてるのが見えるから、自分に関係ない問題とならない。だからこそトックシック・マスキュリニティに自覚的になることも大事」


Kotetsu「性教育やシスターフッド、トックシック・マスキュリニティも、今この社会で声を上げられてる様々なテーマに対して、なぜこれらが必要なのかというところを描いてくれてて本当にありがたい」





――Laurie曰く、3では自分自身やセクシャリティを恥ずかしいと思わされる危険性を描きたかったと。新校長であるホープは、自分は小さい、取るに足らない人間だと思わせることがすごく上手でしたよね。


綿貫「ホープ、上手かった。登場シーンからしてこの人ヤバいと思えたもん。効果的な身振り・手振りをして、聴覚だけでなく視覚までも惹きつける。こういう人は最初みんないい顔してくるんだよね。民衆心理を理解して、人々を統制する。これは政治にも通じることというか、社会の縮図が描いてあった。制服が導入されてもみんな素直に従うじゃん。さすが制服文化が伝統としてある英国だけあってイケてる制服だったけど、悪は制服を利用するということもホープが強いる統制から思ったり。制服自体が悪ではないんだけど、制服って軍服がルーツだということは忘れてはいけない。さらに制服は男女分けの装置でもあるけど、あそこで、スカートを履く男子高校生の抗議(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f83a20fc5b6e5c32000327f)みたいな連帯の仕方まで描かれてたら泣いちゃってたかも」


Kotetsu「自分を恥ずかしい存在とされた時に、みんなが立ち上がる姿を見せて、それは恥じゃなくてプライドだということを伝えるのはメッセージとして絶対に必要。でもそこで戦えなかったリリーもいる。リリーは戦うことすらできないくらい自分のことを恥ずかしい存在だと思ってしまった。あれが現実にあったら、全校生徒の前でプレートを下げられた3人が本当に自分を卑下して自殺してしまってもおかしくない。だからあそこで“死”を取り扱わなかったことがいいことか悪いことかはちょっと判断できないな。そのくらいリアルなことで大きな問題だと思う」


――そうですね。


Kotetsu「一方で、ラヒームは改革されていくことに対していつでも声をあげ、プレートをかけられた時も声を上げて、戦って停学させられた。みんなの前で恥を晒された時にそれを止める存在だったり声をあげる他者の存在は大切だとここでも描いてくれている。そうじゃないとみんなが加担をしてることになるし、加担しないことを表明するのはやっぱりラヒームみたいに声を上げることだって。あそこでシーズン1のVaginaみたいな連帯が見たかったけど、できないのもわかる。いずれにしろ誤った革新が動く時に、その危険性について声を上げていく存在はすごく大事だと思う」


綿貫「ただラヒームも罪悪感で言ってるところもあるから、もう一歩頑張って欲しい部分もある」


Kotetsu「そうだね」






Netflixオリジナルシリーズ『セックス・エデュケーション』
独占配信中
https://www.netflix.com/title/80197526





Kotetsu Nakazato
フォトグラファー、エディター、アートディレクターなど、肩書きにとらわれず多方面に表現し続けたいギャル。Creative Studio REINGから刊行された雑誌「IWAKAN」の編集制作も行う。自身のジェンダーやセクシュアリティにまつわる経験談や思考を発信している。
https://www.instagram.com/kotetsunakazato/
https://twitter.com/kotetsunakazato
https://note.com/kotetsunakazato



綿貫大介/Daisuke Watanuki
編集者。2016年に編集長としてインディペンデントカルチャーマガジン『EMOTIONAL LOVE』を創刊。近著に『もう一度、春の交差点で出会う』『ボクたちのドラマシリーズ』。そのほか安易な共感に頼らないものを精力的に制作している。
https://watanuki002.stores.jp/
https://twitter.com/watanukinow
https://www.instagram.com/watanukinow/



text Ryoko Kuwahara(T / IG

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