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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#60 落書きで癒す

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 少し話が逸れたが、セルフヒーリングは歯磨きぐらいの当たり前になる流れの中で、日々の習慣に例えばマインドフルネスを取り入れるように、何かしら自分に合った方法を一つ二つ持っていることになるだろう。
 そのうちの一つに、我を忘れて何かに没頭する趣味的な何かがあるといい。忘我というのは、ひとつの到達すべき宗教的、精神的な境地でもあるくらいで、座禅などしてみると分かるが、これが案外難しい。だが、実は好きなことに没頭している時がまさに忘我の境地である。だが気をつけたいのは、没頭しつつも思考がフルに回っているのは、ただの熱中であり忘我とはならない。論理的な思考を使いながら将棋を差したり、受けを狙いながら音楽を作ったり、あれこれ試行錯誤しながらゴルフの打ちっ放しをするのは、忘我には至らない。
 忘我とは、我を忘れるばかりでなく、その過程で左脳活動を停止し、いわば普段の生活からあちら側へと越境を試みている状態である。


 で、話を始めの方へと戻すのだが、大きな四角いクロッキー帳を机に起き、真っ白なページに向かい合った時の高揚は、左脳活動停止の気配に満ち満ちていたのだ。仕事で写真撮影をする時は、やはりどこか冷静であり、クライアント、顧客、自分の表現欲求を、滑らかにバランスよく満たすことを無意識に行っていて、熱中してはいるが、決して我を忘れてしまってはいない。それは仕事を離れた個人的な作品に対しても、すべて我を忘れて没頭することはない。なぜなら表現には受け手に届けたいという気持ちが前提にあり、つまりエネルギーの交換を目的としている以上、ベクトルは常に外部へと向かう。外部が喜んで受け取ってくれるかどうかのプラオリティは人それぞれだが、全く無視はできない。少なくとも私の場合はそうである。もちろん芸術家には、作品制作にただ没頭し、その結果としての他人の評価が後から付いてくるという考えをしている方が多い。そういう人もいる。これこそ忘我である。だが、緻密に心をたどっていけば、その先には受け手の顔がわずかでも見えて来る人たちも多い。普段は意識してないだけのこともある。


 私は絵が苦手である。そんな者がクロッキー帳を前にして心を踊らせてしまうのだから、そこには今の私にとって必要な何かが潜んでいるのである。心が踊ること、それを見つけること、ここまで至れば、あとは容易い。右左右と足を進めていくだけのことだ。心踊ることのない人は、好奇心のアンテナを始めは無理やりでもいいから立てて、あちこち出かけてみることだ。そのうちに直感が芽を出したり、眠りから覚めるだろう。とにかく座り心地のいいソファに深く沈んだ体を起こし、心の重石を取り除くのだ。
 クロッキー帳に向かいはしたが、生き癖のような、多角的な思考が邪魔をしようとし始める。どう描けば見栄えがするか、見る人が喜んでくれるか、ひょっとしたら画才が開くのではないかという有りがちな期待まで出てくる。



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