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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#3 瞑想

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世の中には、様々な人々がいる。様々な人々が存在して来た。それぞれが一生かけて追求して来た物には、少なからず何かがあると思う。瞑想法にしても、それぞれに素晴らしい教えがあるのは確かだ。だが、思うに、何か一つの法で、全ての人の瞑想を束ねるのは無理があるとも思う。親子でさえも個性に開きがあるのを、人間ということで、括るのは無理がある。
瞑想は、まず座るだけから始め、何か必要があったり、しっくりくるような方法との出会いがあれば、後からそれぞれに付け足せば良いのであって、例えば最初から至高体験、神秘体験を目指したり、チヤクラを開こう、ハイアーセルフと繋がる、などと思ったりすることで、それらに縛られる事になるのは勿体ないと思う。
瞑想は、目を開けて多くに縛られてストレスを受けている人々が、目を閉じて束縛から自由になり、全てを緩ませて何ものからも解放されること。目を閉じる前から、目標を設定してそこに向かおうとする瞑想は、目を開いている時の限定的な発想であり、本質的には瞑想とは違う。目を閉じていても、開いている様なものだ。この時開いている目は心の目であり、その目も閉じて、自分の心からさえも解放されるのが、良い瞑想だと思う。
現代の人々は闇の無い世界に生きているせいで、日常生活のほとんどを視覚からの入力によって左右されている。多くの感覚の中から、いかに生活が視覚によって支配されているかを振り返れば、よく分かる。そして、心は、その視覚偏重の生活から多大な影響を受けているので、目を閉じても視覚と繋がった心に従ってしまう。
ただ座ることができたなら、この心の束縛からも解放されて、自分の中心にある、本当の自分に戻ることができる。
瞑想とは、つまりは、本当の自分と出会う事で、その純粋さに触れ、自分がいかに純粋なのかを知り、本来の自分を取り戻し、癒されることだと思う。
その本当の自分とは、私が得た感覚を言葉に置き換えるなら、姿や形はなく、神々しい光のようなものだ。その光だけが存在する世界が、全ての世界となっている光景が、本当の自分であり、そこには宇宙すらない。本当の自分といっても、言葉で追えるプロフィールがあるのではなく、ただ自分という光があるだけだ。満ち足りていて、悲しみと喜びの隔たりもない。ただ輝いているだけ。もちろんこれは私の感覚で得たことなので、このイメージに縛られる必要は全くない。
言えるのは、「ただ座る」ということは、そういう本当の自分に最短距離で進んで行くことなのだと思う。だが最短距離というのは、たいていちょっと難しいことになっている。それを邪魔するのは、実は他者ではなくて、自分の中の「心」という人工物だ。心というのが、作り物とは意外かもしれないが、自分はそう感じている。
紙幅が尽きそうなので、少し先へ行こうと思う。

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