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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#19 鉱物

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国内外の方々で拾ってきた石が、我が家には多い。海、山、川、などエネルギーが高い場所から拾ってくるのだが、それらを時々手に取っては愛でている。
その手触り、重み、温度、湿度に触れていると、自然に目を閉じて、ちょうど瞑想をしているような気分になる。さらに聖者に手を引かれて、魂の故郷へと還っていくような安堵感すら覚える。例えるなら、かぐや姫が従者に添われて月に帰る時のような切なさと美しさ。そんなものに浸るひと時は、日常の茶飯事から、すっと遠のかせてくれる。
行く先で、石を拾う。
これが習慣化したのはいつからだろう。学校へ上がる前から石への愛着はすでにあり、小さかった手には、宝物のように握られた石があったことを朧げに覚えている。
そういえば、歩き始めた子供の拳の中から、小さな石が出てくることはよくある。公園や空き地でよちよちと歩き、手をついた時にたまたまあった石を握っては離さずにいる。何でも構わず握ろうとしているだけだとしても、握り心地の良さは知ってのことだろう。人と石は本来相性が良いのだと思う。
私は、行き先でよく歩く。水辺や神社仏閣、森へと入り気に入った石を見つけ、その土地と石自身に許しを得た後で持ち帰らせていただいている。
古今東西の民族的、宗教的な教えでは、石をはじめ、土地の物をやたらに動かさない方が良いとしている。私の行為は、それらに反しているかもしれない。
だが、こう考えてもいいのではないかとも思う。
ひとつは時間軸を拡大すること。
地球は動いている。これは自転、公転のことではなくて、地殻活動のことだ。生き物として地球を大きく捉えた場合、何一つとして同じ場所にあるものはない。人類の歴史中の一たかだか一個人としての人間の時間軸ではなくて、地球のそれで計れば、石も移動している。時に岸壁から崩れたり、隆起があったり様々な動きがある。
もうひとつは、実は人は石を移動させることをあらゆる文化の中で常に行ってきた。もちろん現在もだ。
それは貴石を例にあげれば十分だろう。装身具の一つとして、石を磨き上げ、身につけることは、石を移動させていることに他ならない。
これらが言い訳に聞こえなければいいのだが、自分はこのようにして、ある教えから自由になって、行き先で石を拾っている。
とはいえ、やたらめったら蒐集しているわけではなく、また、どこへ行っても必ずというわけでもない。
分かりやすく言えば、石と目が合った時には、まず何かしらの縁があると思うので手に取る。そしてゆっくりと向き合う。話しかけることも多い。その中で、この石は連れて帰るべきだと強く感じたら、はじめてそこで、その土地とにも語りかけ、許しを頂いてから、共にさせてもらう。
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