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text by Yukiko Yamane
photo by Chihiro Lia Ottsu

14 Issue:Andreas Murkudis(“ANDREAS MURKUDIS” Owner)




年齢は単なる数字であって、オトナになるという境界線は人ぞれぞれ。定義できないからこそ、誰もが答えを探している。多感で将来のことを考え始める14歳の頃、みんなは何を考えて過ごしたのか?そんなファイルを作りたいと始まった「14歳」特集。東京、NYに続くベルリン編には、年齢やバックグラウンド、仕事の異なる個性豊かな15名をピックアップ。
13本目はベルリンを代表するセレクトショップ『ANDREAS MURKUDIS』のオーナー、アンドレアス・ムルクディス。2003年に最初のショップをオープンし、現在は4店舗を運営している。彼のキュレーションによる洗練された空間は、アート・ファッション・デザイン界における自身の経験を反映したもの。兄でありファッションデザイナーのコスタス・ムルクディスとアンドレアスはどのようにファッションと出会い、そして夢中になったのか。インテリアショップ『ANDREAS MURKUDIS 77』にて、10代の思い出とショップオーナーのポリシーについて話を伺った。(→ in English



ーー14歳のときはどんな子でしたか?


アンドレアス「東ドイツのドレスデンで生まれました。わたしたち家族のルーツであるギリシャへ行きたかったため、11歳の頃に西ドイツ(西ベルリン)のギリシャ大使館へ行ったのですが、渡航は不可能と断られました。ギリシャへ行けない、ドレスデンにも戻れない、何もできない状況だったんです。東ドイツに住んでいたので西ドイツに関する情報は何ひとつ知らない中、突然西での生活を強いられました。当時わたしたちには十分なお金もない、それでも住む場所を探さなければならなかったんです」


ーー辛くて大変な時期だったのですね。


アンドレアス「わたしにとって14歳は全てがひどいものでしたし、幸せではなかったですね。1973年にギムナジウム(ドイツの中高一貫校)へ進学しました。服は東ドイツ製、とても強い東訛りのドイツ語だったので、周りから変な目で見られてましたよ。そのため教室でわたしが何か発言するとみんなが笑うんです。最終的に兄とわたしは2年間学校で何も話さなくなりました。ドイツでは授業で発言することが重要とされるので、いい成績がもらえませんでしたね。これじゃいけないと思い西のドイツ語を話すよう心がけ、それから全てがうまくいくようになりました。それが16歳でしたね。1974年に校医の先生から早急に眼鏡をかけるように言われたんです。眼鏡をかけ始めたものの、当時のメガネは見た目が本当にひどくて。ベルリンでの新生活はこの眼鏡と一緒にスタートしましたね」


ーー14歳のときにどんな24時間を送っていたか、円グラフに書いてみてください。





ーーでは、14歳のときにどんなことを考えていましたか?





ーー当時の思い出でよく覚えていることがあれば教えてください。


アンドレアス「1975年の夏、家族でイタリアへ旅行しました。夕食に出かけたとき、イタリアのファッションマガジン『VOGUE』を見つけたんです。それがわたしにとって初めてのファッションマガジンでした。兄と一緒に購入して、それからわたしたちはファッションの虜になりました。当時イタリアでは4000イタリア・リラ(約4ドイツマルク)、でもドイツでは20ドイツマルクだったんです。とても高いですよね。おそらくまだ持っていると思いますよ。わたしと兄にとってとても大事な出来事でした」


ーームルクディス兄弟にとって素晴らしい発見でしたね!


アンドレアス「学生の頃、早朝4〜7時までスーパーマーケットで働いていたことも覚えています。午前2時に起きなければいけなかったんですよ。時給5ドイツマルク、半年ほど勤務しました。それから貯めたお金でヴェルサーチのイエローレザージャケットを購入したんです。高価でしたが、これを手に入れることにかなり夢中になっていましたね」


ーー14歳のときに抱いていた夢は何ですか?


アンドレアス「正直なところ、夢はありませんでした。この困難な生活をどう上手くやっていくか、そのことを常に考えていたんです。先ほどお話ししたように、わたしたち家族にとって本当に辛い時期でした」



イタリアで撮影されたムルクディス兄弟 (1975)


ーーどういう経緯でショップを始めたのですか?


アンドレアス「兄のコスタスとはいつも仲が良く、何でも一緒にしていましたね。80年代初頭にホリデーでイタリアへ行き、ビーチに座って一緒に話をしてたんです。そのときお互いすでにショップのコンセプトを決めていて、どのブランドが必要かなど紙に書き留めました。後にわたしがミュージアムの仕事を辞めるのですが、何かを自分で始めたいと思っていたんです。あと当時兄はミュンヘンに住んでいたので、毎週末車で彼を訪ねてましたね。兄はすでにファッションデザイナーとなり、90年代初頭から自身のビジネスを始めていました。この週末の小旅行からショップのアイデアを思い付いたのです。小さなミュージアムショップ、でもより大きな規模でファッションも取り入れる。わたしはショップの準備を始めましたが、ビジネスプランはありませんでした。むしろビジネスプランを立てるのが嫌いでね(笑)。一歩一歩着実に取り組み、ショップをオープンさせました。当初3000ユーロ所持していましたが、大半は改装工事に費やしましたね」


ーーこの仕事を始めてよかったことや大変だったことはありますか?


アンドレアス「わたしはバイヤーでもあるので、自分のやりたいように取り組み、自分自身で決定することができます。制限もビジネスパートナーもないのです。コマーシャルブランドとあまり知られていないブランドをミックスすることも重要です。その一方で、わたしには全責任があります。でも結局この責任があろうとショップを運営するということは素晴らしいことなんです。わたしたちは本当に知られていない優れたブランドたちをセレクトしていますしね。しっかり売ることができるかどうかは分かりませんが、コマーシャルブランドだけではつまらなくなってしまいます。だからこそ優れたポリシーやアイデアを持つ小規模のブランドと協力することがとても大事なのです」





ーー将来自分のショップを持ちたいと思っている14歳たちに何かアドバイスはありますか?


アンドレアス「あなたのコンセプトを信じなければいけません。ショップのコンセプトは何であるのか、クライアントは誰なのかについて考える必要があります。ビジネスプランは必要ありませんよ。わたしがショップをオープンしたときも同じでした。ビジネスプランを立てず、5分間の内見でショップスペースを即決したんです。建築家に改装を相談したところ、警報システムや床暖房などを新たに設置する必要がありました。それらの費用は全て高額で、着手する前はこのプロジェクトがどれほど大変なのか一度も考えていませんでしたね。銀行に行ってお金のことを相談しましたが、すぐにクレジットカードも切られてしまいましたよ。十分な予算のない状況下でも、わたしは自分の掲げたコンセプトを心の底から信じていました。最終的にお客様が定着し、請求書も支払えるようになったんです。近年ベルリンの家賃は高騰していますが、ここで新しいビジネスを始めることは簡単ですよ。東京やパリでいい場所を見つけることは難しいですからね」


ーー強い意志が込められたストレートなメッセージですね。14歳のときに影響を受けた、大好きだったものはありますか?


アンドレアス「11〜15歳までは苦労していたので、自分自身を見つけるためにたくさんの時間が必要でした。それからクラブへ行ったり旅行したりしましたね。映画『クリスチーネ・F (Christiane F. – Wir Kinder vom Bahnhof Zoo, 1981)』にも登場した『SOUND』というベルリンで有名なディスコがありました。70年代後半は仲のいい学校の友達と一日置きに通ってましたね。そこには映画館、ダンスフロア、ショップ、アイスクリームショップがあったんですよ。映画を観て4〜5時間踊って、その後バスで帰宅してました。ドラッグは一度も使ったことはなくて、コカ・コーラばかり飲んでましたよ(笑)。実際のところクラブはわたしの人生において大きな部分ではないですが。それからパンクになりましたね。本当に楽しい時間でした」


ーー最後に何かお知らせがあればどうぞ。


アンドレアス「インテリアショップ『ANDREAS MURKUDIS 77』を改装したいと思っています。日本が大好きで、特に東京はお気に入りの街です。そこにショップをオープンすることはわたしの夢の1つですね。東京オリンピックが開催されるので、来年実現できるといいなと思っています」








photography Chihiro Lia Ottsu
text Yukiko Yamane



ANDREAS MURKUDIS
www.andreasmurkudis.com
@andreasmurkudis:https://www.instagram.com/andreasmurkudis/





This interview is available in English

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