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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#16 夕日

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人間が自然現象を時に神そのものと捉えるのは、このような動物が自然現象を自分の一部として感じている感覚が原点になっていると思う。宗教の多くが、神に自身を委ねたり、悟りを得たりと、言わば何かとの隔たりを積極的に失くす全体性の獲得へと誘っていることからも、それが窺える。

宗教文化の多くが動物神を持つのは、すでに自然と分断されてしまった古代の人類が、全体性を失わずに生きている動物に神を感じたからだろう。そしてその敬慕の対象は、動物だけに留まらず、山川草木、海、空、星などにも広がりを持っていた。

人間の、こうした自然への敬慕はやがてその感情感覚を、美として意識させ今日に至っている、というのが自分の捉え方だ。美術史や美術館にある人間がこさえた美というのは、自然模倣と、自然模倣とは関係のない全体性の再獲得への個人的情熱から構成されている。いずれにしても、もともとの宗教の情熱がそうであるように、大きな何かへの接続欲求の表れだと思う。

話を元に戻そう。

夕日を眺めるということで、多くの人は癒しを感じている。

夕日をドアだとしてみると分かりやすい。そのドアは、遠い過去に、生物として進化してきた過程で断絶してしまった母なる自然との繋がりを取り戻す一瞬へと開かれている。

それは、やはり癒しなのだと思う。幼少の頃に母や父の腕の中で感じた優しさは夕日の優しさと同じだ。私達は夕日を眺めることで、あの優しさに包まれて、一日の疲れと傷を癒している。

同じ太陽の力を感じる瞬間は朝日にももちろんあるのだが、夕日とは違う。

試しに目を閉じて、朝日が水平線に登ってくる瞬間を思い描いて欲しい。その感覚を存分に味わったあとで、次に夕日を思い描いて欲しい。敢えてここでは、それを描写しないが、全く違う感じがしたと思う。
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