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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#52 ことば

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 こういう場合は常に文句を心の中で呟いていることが多い。マスクのような微笑みを顔に貼ってはいるが、前を歩く人の歩き方や服装について文句を言っていたり、それは天気についてだったり、店の看板のデザインについて、駅の改札の数についてだったりと、とにかく目につくもの全てに否定的な思いを呟いていたりする。
 文句というのは、人を弱らせる怒りのエネルギーで満ちている。怒りから遠ざかるためのスキルとしてのタテマエと本音の使い分けが、前述したことだが、文句を心の中で呟き、怒りのエネルギーを溜め込んでしまうのは、緩やかな自殺である。毒の水位が身体内で気づかないうちに上がってきては、心や体の病を連れてきてしまう。どうにか解消すべきである。
 心の中の文句は、たいてい汚い言葉遣いで語られている。口角を上げて微笑みを浮かべながら、人前で口にしたことのないような言葉で罵っている。そういう経験はないだろうか。そういう人は、まず目にくる。目の光に幕がかかり、輝きが失せてしまうから、ブレーキがかかり、人としての成長が停滞してしまう。


 言霊というものは本当にあって、美しい言葉で暮らすと、姿勢が正されて健康になる。悪い言葉で暮らすと、その逆になるのは摂理でもある。
 日頃から、心の中で悪態をついて、自己分裂した状態でいると、当たり前のことだが、自分がいなくなってしまう。分裂しているのだから、本人がどんどんいなくなって、器としての身体だけが抜け殻のように、生霊のように残ってしまう。
 そうならないためにも、自分を一人にまとめておくこと。これが大切である。そのためには、言葉も一つでなくてはいけない。対外的な本音とタテマエは処世術として活かされるが、自分の中の心の分裂を生むような悪い言葉による独り言は、それが癖になる前に早めに止める努力をした方がいい。すでに悪い独り言が習慣づいてしまっている人は、諦めずに、絡まった毛糸をほぐすように、落ち着いて丁寧な気持ちでリカバリーしてほしい。
 悪い言葉がいけないならば、当然美しい言葉と共に暮らすことは、良いことである。

 
 美しい言葉とは、畏まった古風な言葉だけをさすわけではない。要は響きである。美しい言葉には、意味を超えた美しい響きがある。たとえば「ありがとう」。それを口にする時、耳で聞く時、心がすっと落ち着き柔らかくなるのを私は感じる。不思議なもので、外国語の「ありがという」もそれぞれ美しい響きがある。アラビア語の「シュクラン」中国語の「シェシェ」スペイン語の「グラシアス」関西語の「おおきに」。すべて意味を知っているせいからか、それぞれ美しい響きがある。


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