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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#27 さようならで暮らす

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さようなら、ばかりでなんだか気が滅入ってくるような気がするかもしれない。おそらくそれは「さようなら」が多くの人にとって、切ない別れを感じさせるからだろう。一つの恋愛が終わる場面や、やむ得ない理由による不本意な別離などの、アンダーなイメージが強いからだと思う。

だが、それらは、割と最近のもので、もともとは悲しみなどなく、大らかな使い方もされていたらしい。語源的なものは諸説あるのだが、主流なのは、「左様ならば」と会話を打ち切る言い方から「ば」を省略したとする説。現代的にいうなら、「じゃ、そういうことで!」な感じだろう。もともとは、悲しみもネガティヴさもなく、あったとしても、「左様ならば仕方ない」といったあっけらかんと諦める意味を含んだ言葉なのだ。

ただ、語源は語源でしかなく、現代でどういうニュアンスを持っているかが大切であって、そのニュアンスを外して語源がどうのこうの言っても、用をなさない。

ただ、私の使う「さようなら」は所詮独り言であるから、問題ない。その語感、語源ともども好みなので、個人的に使いこなしているだけだが、言葉にはこういう自分用の使い道もあっていいと思う。

蛇足だが、さきほどの語源がらみの話としてもう一つだけ。

明治の頃には、男性が「さようなら」と去り際に声をかけると、女性は「ごきげんよう」と返すのが一般的だった。当時は、ごく自然で当たり前だったから、何とも思わなかっただろうが、現代に棲む私からすれば、なんとも大らかで、気の利いたやり取りだろうと、軽い嫉妬さえ感じる。

さて、そんな背景もある「さようなら」だが、呪文のように同じ言葉を唱えてどういうつもりかと思われるだろう。

私は、これは、と感づいたことは、身を以て試すタイプなのだが、精神面での断捨離のやり方の一つとして思いついたのが、そもそもの始まりだ。

断捨離とは、この連載でも以前取り上げたものだが、整理術としての断捨離を考えた場合、しかも精神面でと限った場合、収納用具として時間の仕切り板のようなものがあると便利だなあと考えていた。

もう少し述べると、いわゆる衣服や資料などの目に見える物たちと違って、精神面での整理というのは、言葉をノートに書き出したりするような可視化する作業が結局必要になってくるのだが、そうそう日々書き出したりもしてられない。

瞬間瞬間とまでは望まないが、日々の細々とした出来事を整理して終わらせていく、過去を未来へ持ち込まないメソッドとして、「さようなら」は使えるのではないか、と思いついたのだった。



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