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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#33 スピリチュアル・ヒーリング

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果たして霊はいるのだろうか?
その問いに対して科学的根拠の無さを足場に否定する意見は、四角四面で味気ない。科学にしても宗教にしても霊界にしても、ハイエンドな知識は一部の専門家のみが理解できるだけで、一般人にとって不可視である。つまり私の実感としては科学も実は見えない世界である。それを絶対的な根拠として信用してしまうのは、スマホや家電や車など、科学技術によって現代生活がバックアップされている可視の部分の影響が多い。
だが、願いが叶ったり、想いが通じたり、直感が当たったりした時に感じる、見えないが確実に存在する世界もしっかりと傍にある。
私には、見えようが見えまいが、あるものは有る、あると感じられるものはその人の時空で確実に存在すると思う。その方が、楽しいしね。杓子定規、四角四面はセクシーではない。私は、存在するものには遊びと色気が必要だと信じているので、科学も非科学も、どちらも信じてしまえばいいと思う。その接点の矛盾は、放っておけばいい。突き詰めてどうする?といった立場だ。それぞれの存在の色気に惹きつけられ、弾かれて、宇宙は進んでいるのだ。
話をスピリチュアル・ヒーリングへと戻そう。
まずは、前述ハリー・エドワーズさんの「霊的治療の解明」から抜粋する。
「霊的知性と同調できる能力を備えた人間の心が、ある訴えの想念を放射することにより、治療霊はこの訴えを読み取り、患者の身体の不調和箇所を癒す修正的性質を持った力を操作することができる」
つまり治療家というのは、霊と患者の間を取り持つ存在でしかなく、実際に治療をするのは霊だということだ。そして霊とコンタクトを取れる治療家には、霊と同調できる能力が必要とされている。言うは易しな感じだ。
「儀式や儀礼や見栄えのする技法といったものは人々を信じさせます。またそれらを行う人は心理的な効果をあげ、かつ治療しようとする意図も真面目であるかもしれません。しかしこのような振る舞いは何の役にも立たないものなのです。こうした見かけだけの行為は、治療理論を学ぶ上で何の価値もありません。それはまともな努力の妨げになるだけです」


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