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天野太郎(横浜美術館 主席学芸員)「美術は近くにありて思ふもの」Vol.3 美術と建築 前編 ゲスト:光嶋裕介

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天野「これがフォルコラのスケッチですね」

光嶋「はい。僕はそういう造形的美しさとその背景にある根拠を建築空間として、伝えたいと思っています。この本もそうした思考を言語化し、より多くの人とシェアすることで得られるものがあるのではないかと思って作りました。だから僕はこの対談において、建築というのは器としての箱を作って終わりじゃなく、その先、どうやって魅力的な行為が営まれるかということを考えなくてはいけないと思っていますし、そこに最も興味があるので、天野さんと対話してみたいと思いました。

例えばアートにおいて、天野さんもコラムで書かれていた『美術館が主役の時代が地域的に広がっている』ということですが、分野をクロスボーダーしていく中で生まれる化学反応によって魅力的なものが生まれていくというところに繋がるんじゃないかと思うんですが、いかがですか?」

天野「僕は光嶋さんのこの本を見て、後藤くんとの話にも出たブリコラージュ(持ち合わせのもので作る/修繕する)を思い出しました。ブリコラージュを職業とするブリコルールが、全体を統治するガバナンスとは別の立場で、すぐに役に立つかどうかは別にしても断片を集める。一見他人から見ると全くバラバラなものなんだけれど、無作為に集めてるじゃなくて、それがいつか組織化されていくわけです。

でも建築家とは一般に、ブリコラージュとは対局の概念ですよね。ある種のエンジニアリングというか、無駄を排して計画的で、しかもセルフコンテイン(自己充足)で独立したものが出来上がるというのが一般的な感覚なんですけれど、光嶋さんの本を読むとブリコラージュ的な発想もあるのかもしれないと思ったわけです。

先ほどの美術館と地域社会の話ですが、最近よく、『美術館ももっとコミュニティに開いたほうがいい』というようなことを言われるんです。かつて町内会のようなコミュニティを作ってきた日本人が、それを失った現在、一人で一日中過ごす孤立した生活を送るんじゃないかという不安を持っている。貧しくても年をとっても孤立化しなければ人生は楽しいかもしれないか、また新しいコミュニティの形を再構築すべきではないかという一環として美術館にもそうした役割を求められているわけです。

そのためには建築的な空間としても、例えば集うとか開く、コネクトしていく役割を担わなくなきゃいけない。かつてのモダン建築というか合理性機能主義みたいなこととは違う、しかもポストモダンとも違うような新しいあり方というのが問われてるような気がするんですよ。この本にはそのヒントがあるような気がして凄いと思ったんです」

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