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藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#5「モルディブの泡」



 一生懸命仕事をしていると、いいことも稀にあるもんだ、とワークアウトしながら視線を水平線へと伸ばした。
 インド洋に浮かぶバカンス島での取材は、割と簡単に終わり、残りの二泊は休暇となったのだ。アラブ資本のリゾートホテルは、モダンではあるが成金趣味は抑えられ、私の目にはとても心地よかった。
 食事は、ニューヨークや東京と同じくらい美味しいし、ことさらローカル色を強調していないのも、つかの間の滞在者にとってはむしろ馴染みやすかった。
 私に用意されたプライベートヴィラはプールやビーチまで付いている申し分のないもので、最初は水上コテージに泊まってみたかったが、取材で訪れて充分見物できたので、それで満足だった。むしろ波の音で眠れない心配があるので、陸で良かったとさえ思う。
 間もなく雨季だと聞いていたが、その日は朝からの晴天に恵まれ、朝食前に体を動かそうと、水上のジムで汗を流していた。


 ゲストは私以外にもう一人、褐色の引き締まった美しい体の男が、寡黙にダンベルを使ったチェストプレスに励んでいた。身長はそれほど高くないが、元サッカー選手と言われても頷いてしまうような筋肉を持ち、ストレッチをしている時の様子からは、ヨガのトレーナーのようでもあった。年齢は三十半ばくらいだろうか。だとしたら私よりもいくつか歳下になる。だが、じっと観察したわけではないので、5メートル先の印象でしかない。
 わたしは、英語だけは割と自信があるので、タイミングを見計らって声を掛けてみようと思っていた。せっかくモルディブまで来ているのだから、一人や二人ぐらい外国人の友達を作っておきたかった。
 有酸素運動を40分終えてから、器具を使ったウェイト運動をこなしていると、見知らぬ人と同じ空間で汗を流していることが、なんだか不思議に思えてきた。窓の外の水平線から天井に目を移すと、複雑な角度で貼られた多角形の鏡が、私たちを複数映していることに気づいた。そのいくつかに彼がいた。微妙に変化のついたアングルからの彼は、やはり美しかった。顔はよく見えなかったが、どちらかといえば、女性的な顔立ちのようだった。ヨーロッパからだとロシアとイギリスの方が多いです、という広報の説明を思い出し、勝手に北アフリカ系イギリス人だろうと思った。


 声をかけてきたのは、意外にも彼の方だった。作り笑顔ではなく、自然な微笑みを浮かべて、綺麗な英語でグッドモーニングと言った。
 私たちは、それぞれのワークアウトを休止し、レモングラス入りの冷水を片手にしばらく雑談を楽しんだ。それぞれの出身国、ここに来た理由、旅のこと、仕事のこと、つまり出会った時に話すこと全般をさらっと話したのだ。
 彼の名は、ジャガー。吹き出しそうになってしまったが、それを察した彼が、タイガーっていう名前のゴルファーがいるなら、ジャガーっていう名のジャマイカンがいたっていいだろう?と片目をつむって微笑んだ。
 私の名前の意味を伝えると、ジャマイカ系イギリス人のジャガーはぴったりだと言って手を叩いた。君の目はチェリーのように美しいと言った後で、私の名を暗記しようとするように、サクラ、サクラ、と唱えた。
 かくしてジャガーとチェリーが出会ったのだった。





 出会いの時の記憶というのは、なぜか風化が遅い。今でも私の目がチェリーに似ているとはどういう意味だろうと訝しく思うのだが、褒め言葉には違いなく、あの水上のジムでの二人は、記憶の中でちょっとキラキラしているのだ。そう、出会いはいつも輝いている。そして結末はだいたいねずみ色だ。せめてシルバーのように輝けばと思って奮闘することもあるが、それはなかなかハードだ。ねずみ色はシルバーにはなれない。


 それぞれのワークアウトを終えた二人は、自然な流れで朝食を共にすることになった。私は内心、ヤッター、であった。こんなにことがうまく進むなんて。残りの二泊ががぜん楽しくなってきた。
 一旦シャワーを浴びるつもりだったが、ジムの冷蔵庫にあった冷たいおしぼりで体を拭いて、そのまま行こうとジャガーが誘うのもあり、直接向かった。
 レストランはすでに第一陣が去ったようで、空いていた。なるべくビーチに近い席に座ると、朝日が祝福のように差し込んでいて、全てがうまくいっているのだと語りかけていた。
 ジャガーは、フルーツと野菜を別の皿にたっぷりと盛り付け、何かの家畜のようにもしゃりもしゃりと平らげていった。恐るべき食欲に多少たじろぎながら、私もキヌアのサラダやグルテンフリーのブレッドなどをさらりと美しく盛り付け、マンゴーのスムージを横に置いた。ワークアウト後は、たっぷり食べた方がいいよ、と私の前に並んだ食べ物を見ながらジャガーがアドバイスをくれた。私は、ジャガーと付き合うことになったりしたら、こういう小言を毎日のように聞くのかと、なんだかそわそわした。
 炭水化物とタンパク質もたっぷりとね、まさかダイエットなんかしてないだろう?ジャガーはさらに続けた。端から見たら、健康にうるさい彼が、少食の彼女に何か言っているようにしか見えないだろう。私は、さらにそわそわしながら、じゃあオススメの食べ物をあとで私に取ってきてね、と伝えた。ジャガーは、親指を立てて、まるでナイスパスを送ったチームメイトを讃えるように頷いた。


 結局朝食に二時間もかけた私たちは、明日の朝食も一緒にしようと約束して、それぞれの予定へと解散した。私には何の予定もなかったけれど、友人やビジネスパートナーとなんちゃらとか言っておいた。本当はジャガーにくっついてスキューバダイビングに行きたかったけど、ライセンス無しでは言い出せなかった。マンタのシーズンが始まるからと子供のようにはしゃぐジャガーを見て、もうすでに彼のことを結構好きになっていると自覚した。

 朝食を褐色の男と共にしているところは、同行のカメラマンにも見られていて、その子はマサミといって先月30になったばかりなのだが、さすがサクラさん、お目が高い、手が早い!などと冷やかすので、ことの経緯を軽く話してみた。
 それって、出会いじゃないですか!と大げさに興奮してみせるので、私もいい気になって、でしょ?などと反応しながら、本当に出会ってしまったのではないだろうか?と信じ始めていた。


 翌朝、約束の時間にレストランへ行くと、ジャガーはすでに着席していて、遠くから手を振って手招きをした。
 たった一晩会えなかっただけなのに、すでに私はかぐや姫かと思われる心境で、駆け寄った。ジャガーは大きく手を広げて私を包み込んでハグをした。その時、レモングラスの香りがした。そのことをジャガーに伝えると、サクラもだよと言った。
 英語をしっかりと身につけておいて良かったと、この時ほど思えたことはない。ジャガーはいいやつで、彼も私をとても気に入ったようで、話は尽きなかった。ジャガーはピタパンとウムスを何度もおかわりし、私はスイカのジュースを三杯も飲んだ。ジャガーは私の切れ長の目や、髪の色や、肌の質感などを褒め、私も同じように本心からいいなと思える部分をちゃんと褒めた。褒め合えるっていい。普段は悪口だって沢山言う私だけれど、人を褒めることは、楽しいことなんだって思い出させてくれた。
 サクラは明日帰るんでしょ?だったら今日の夕方会える?とジャガーが聞いてきたので、なんなら昼間も空いてるんだけど、と喉まで言葉が出かかった。どうやらジャガーは何かしなくてはいけないことがあるらしく、ため息をつきながら、なぜこんな美しい島にまで来て僕は忙しいのだろう、と呟いた。


 待ち合わせの場所はジムだった。二人が出会った場所だ。そこへ行くと、ちょうどジャガーがワークアウトを終えたところだった。汗だくだから、とハグをせずに頬にキスをしてくれた。
 そのままヴィラのエリアを抜け、人気の少ないビーチへ着くと、ちょうど太陽が水平線へと降り始めていた。まるで夢のようだなと私はなぜか冷静でもあり、インド洋に向かい合ってジャガーの言葉を待った。
 ジャガーは、いつもの涼しげな目元で私を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。
 サクラはとても大切な人だから、今度ロンドンに来て欲しい。ジムで最初に会った時から、深い結びつきを僕は感じてしまったんだ。それはサクラも同じだと信じている。これからの仲良くしてほしい。
 私は、おそらく人生で一番うっとりしながらジャガーを見つめていた。
 ロンドンに来たら会ってほしい人がいる。彼もきっとサクラを気にいると思う。
 父親に会うのか、私は身が引き締まる思いがした。
 僕のボーイフレンドにはすでにメールしてあるし、彼も僕に新しい友人ができたことを喜んでくれている。


 インド洋は絶望的に広い、と私は思った。





#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。

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