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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiroi

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#23 マスク越しの恋




 マスクをしたまま最後のキスをして、わたしたちは、お別れした。
 JR両国駅の1番線ホームの端で、秘教の儀式のように、ひっそりとキスを交わしたのだ。真昼間だというのに、そこだけ薄いベールに包まれているようだった。ホームには人がたくさんいるのに、誰にも気づかれていない二人だった。
 2枚の薄いマスクの生地越しに感じた彼の唇は、消えてしまいそうなほどに、小さな凹凸しかなかった。
 彼は津田沼行きの電車に乗り、わたしは彼を乗せたその黄色い車体がホームを出ていくのを見送った。
 総武線。わたしはいまだにそれに乗って東へ向かったことがない。
 わたしは、西向きの電車に乗って、逆方向の三鷹へと帰った。12月にしては、暖かい土曜の午後の始まりだった。
 

 前夜、わたしたちは久しぶりに一夜を過ごした。
 どのくらい久しぶりかと言えば、15年ぶりだった。学生の頃に数ヶ月だけ付き合って、別れた理由も今は忘れてしまっていた。
 わたしから、なんとなくインスタで連絡をとった。彼は驚きもせずに(返事の文面上は)先週会ったばかりの友人のように、親しげな言葉をくれた。きっと彼も、これといった理由もなく、ただなんとなく親しげな言葉を並べたのだろう。
 わたしたちは、15年ぶりに夜を歩き、客の少ない店でちゃんこ鍋を食べ、そのまま彼が予約していた駅前のホテルにわたしも泊まった。
 不自然といえば、そうなのだけれど、自然といえば、そうとも言えた。
 

 わたしは、前夜のことを洗濯物を取り込むように思い出しながら、その手つきにやさしさを感じた。三鷹行きの電車は秋葉原を通り過ぎていく。


 彼は15年前とは違って、コンドームを用意していた。
 わたしは、そのことで、別れた理由の一つが、避妊に対しての彼の意識の薄さだったことを思い出した。思わず、「へえ、変わったんだね」と口にしてしまったが、彼は何のことか分からない様子だった。
 なんとなく、連絡をとって、15年ぶりに彼とセックスをすることになったのに、その時になっても、実感がなかった。もう一人のわたしをロールプレイングしているような、ふわりとした感じが続いていた。
 わたしがなぜ突然連絡をしてきたのか、それを彼は尋ねることはなかった。わたしも、そこに触れようとはしなかった。そんなやりとりをしたら、この物語のめっきが剥がれるような気がしていた。
 わたしたちはきっと、現実の中のファンタジーを共作して、その物語の中で、ちょっとだけ遊びたかったのだと思う。幸運なことに、彼もそんな私の思いを汲み取ってくれていたのだと思う。もしくは、ただ単に、セックスをしたかっただけかもしれない。


 わたしは、小さなため息をついた。電車の揺れが止まり、御茶ノ水に到着したと、ホームのアナウスが告げている。窓からの日差しが思いのほか強くて、向かい側のシートに移動したかったが、あいにく空席はなかった。
 

 御茶ノ水。そこは彼と私が通った大学がある街。同じサークルの飲み会で隣に座ったのが、付き合うきっかけになった。ありふれた出会いだけれど、あの時のときめきは、不思議と今でも残っている。悪い思い出だけが記憶に残りがちだと人は言うけれど、わたしは不思議とあの時のときめきを覚えている。彼が違う席から、ビールグラスを片手に私の隣へとやって来て、当たり前のように座り、何も言わずにグラスをわたしの目の前にかざした。そのグラスに自分のグラスを合わせて、乾杯と小さな声でわたしは言った。そんな一連を思い出すたびに、わたしの記憶はざわざわする。
 だけど、今でも彼が好きなわけではない。それくらいは、分かる。それでもなんとなく連絡をとって、朝まで一緒にいることに、なんの抵抗もなかった。

 
 昨夜の彼は、初めてわたしに触れるかのような手つきで、わたしを裸にした。

 
 その時になって、彼との15年前のセックスがどんなだったかを、全く覚えていないことに気づいた。短い付き合いだったから、回数も一桁だったかもしれない。だとしても、まったく覚えていないのが、不思議な気もしたし、当たり前のような気もした。
 もしかしたら、付き合っていなかったのだろうか。それは、ただの季節風のようなもので、ある時期を、恋愛のような空気が二人の間を吹き抜けていっただけかもしれない。


 ちゃんこ鍋を食べて、日本酒を少しだけ飲んで、なんとなく気持ちが緩んだわたしだが、昨夜はなんだか冷静で、このあとセックスすることになると分かっていたから、たくさん食べないでおこうとした。セックスになれば、わたしは結構激しく動いてしまう方だから、胃がいっぱいだと気分がすぐに悪くなってしまう。吐きそうになったりすることも、これまで何度もあったから、それだけは避けたかった。
 そんなわたしだと、もちろん彼は知らない。わたしがセックスを好きになったのは、彼の後に付き合った人から教わってからなので、15年前の彼はわたしが激しく動いてしまうことなんて知らない。


 彼がホテルに部屋を取っていることは、ちゃんこ鍋を食べている時に知った。なんとなくコロナによる終電時間の切り上げの話になって、彼が駅前のタワーホテルに泊まることを知った。わたしが、部屋は大きいの?と聞いて、彼はダブルベッドだと答えた。口の中の豚肉の味が変わったのを感じた。


 電車は四ツ谷駅へと滑り込んだ。多くの乗客が下車し、少ない客が乗り込んだ。一番端のシートが空いたので、そこへと移動した。左の手首に腕時計がないことに気づき、ホテルの部屋に忘れたかと思ったが、ちゃんとバッグにいてくれた。おそらくあの部屋に戻ることは、一生ないのだろう。そして、昨日の彼と会うことも一生ないのだろう。
 ただ、
 そう思いかけて、私はその方向をそっと塞いだ。


 昨夜、ちゃんこ鍋屋を出たわたしたちは、コンビニに寄って飲み物を買った。わたしは冷たい麦茶を、彼は炭酸水を。
 部屋に入ると、13階からの夜景に二人で見惚れた。背後から彼は私のお尻をそっと撫でた。あたたかい、と彼はつぶやき、わたしは可笑しくもないのに笑った。
 わたしが彼の方へ向き直ると、彼はマスクをしたままキスをした。あっ、といって彼はマスクを外し、わたしも外した。そして、本当の唇を合わせた。冷たい、と彼はつぶやき、わたしは少し可笑しくて笑った。
 セックスは、あまり良くなかった。きっとお互いに、それを求めていなかったのかもしれない。何かの順序を辿るように、わたしたちはそれぞれの役目をこなし、規則正しいリズムと、不規則なそれを交えながら、登らなくてもいいピークを目指して、そして途中で白けてしまった。
 それでもダブルベッドに収まった二人は、なんとなく楽しい気分の枠の中で朝を迎えた。
 ただ、
 ふたたび、わたしはそう思いかけて、そのままにした。


 次の駅は新宿だと、車内のアナウンスは、つまらなそうな気持ちに張りのある声を被せて伝えていた。多くの乗客が降車し、多くの客が乗ってくるのだろう。
 新宿。わたしは新しい宿という名を、ニューホテルと訳してみた。もともと宿場町だった新宿。多くの人がここに泊まって、眠り、セックスもたくさんしたことだろう。江戸時代でも室町時代でも、平安時代でも、石器時代でも、人は泊まり、セックスをして、眠ってきたのだ。


 昨夜、彼は射精しなかったな。
 

 そんなことを思い出して、小さくため息をついた。彼にしてみても、いまいちなセックスだったことだろう。わたしが濡れないので、唾をつけて挿入していたけど、それでも乾いた結びつきが潤うことにはならない。
 乾いた結びつき、とは言いすぎだけど、気持ちと心の結びつきを簡単に操作できるほど、わたしは生き慣れていないのだろう。その未熟さのようなものが、うっとおしいような、愛おしような気がした。


 新宿は、何かを生み出すようでいて、何かを吐き出すようでもあり、それは巨大な生物に似ているような気がした。
 電車は、西へと向かって新宿を出発した。ホームに立つ人々、歩く人々、みんなを中央線に接続した総武線車両が追い越していく。お腹がへったな。考えてみれば、朝から何も食べていない。そうだ、どこかでランチをしよう。中野か、それとも三鷹まで戻ってしまおうか。
 土曜日だから休みの店もあるだろう。テイクアウトじゃなくて、お店で食べたい。プラスチックの容器じゃなくて、ちゃんとした器がいいな。箸も割り箸じゃない方がいいけど、そこは重要でもないな。


 昨夜、彼は風呂に入ると言って、1時間くらい出てこなかった。
 セックスが終わった後で、それはありなのだろうか、と思った。きっとこんな感じだったから別れたのかもしれない。15年経っても、相性なんてそんなに変わらないのかもしれない。
 ただ、
 ただ、マスク越しのキスには何かがあった。
 凹凸に乏しい彼の唇に、何かを感じたのは確かだ。
 15年後のわたしは、それを思い出して、また彼に連絡したりするのだろうか。50代になったわたしは、その時いったい何を求めるのだろう。


 電車は終点の三鷹へ到着した。
 


#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある
 
 

 

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