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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#5 植物

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 自分にとっては、台風でかなり傷を負った山桃との出会いがきっかけだった。その山桃は家の近くにあって、普段は声をかけたり幹に触れたり、その下に座ったりして楽しんでいた。だが、ある台風の翌朝に心配になって見にいくと、かなりのダメージを負っているようだった。私は、本能的にその木に手を当て、痛みがやわらぐこと、早く治ることを願った。しばらくそのまま願い続けていると、どこからともなく頭頂部からエネルギーが流れ込み、私の体を貫いて手から幹へと流れ出ていくような感じがした。その時に、人間は植物と交感し、互いに癒し合えるのだということを感じた。
 それまで、植物と親しむことで、自分が癒されることは知っていたのだが、自分が植物を癒すことについては思いもしなかった。さらに、その経験がきっかけになって癒しの本質について考えることになった。
 本来の癒しとは、出口なしの一方通行の行き当たりで、良いエネルギーが与えられるのを待つということではなく、円を描くエネルギーの環の途中に自分を置き、やって来るエネルギーを受け入れ、そして次に渡すことだと知った。
 もうちょっと進めて整理して言うなら、癒せない人は、本当に癒されはしないということになる。
 たとえば、癒されるために森へ行き、森林浴をがつがつむさぼるようにやる人は、奪う人であり、その奪う心がある以上は、継続的に癒される円環のゾーンには入れない。元の場所に戻れば再びストレスの網に入ってしまう。その人は行き止まりで与えられるエネルギーをただ待っている人だ。森に癒されたのなら、御礼に森を少しでも癒し返してあげたい、と思う時、はじめてその人に本当の癒しが始まると思う。癒されることは、癒すこととセットになっている。
 何かの物事や音楽によってその時だけ癒されることは出来るだろう。だが、そのインプットが途切れれば、癒しの時間は終わってしまうのだ。本当の癒しは、癒しの循環の中に、心身ともに入っていった時にだけもたらされる。私は、それを山桃と過ごした時間で体験したのだった。
 エネルギーを奪わずに交換することで、はじめて癒される。
 
(4ページ目につづく)

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