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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#8聖地

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先にも記したように、達人ならば、人のごった返した拝殿前にいても、神気にアクセスできると思うのだが、自分はまだまだなので、ひっそり裏手で、そこの土地の本質に触れることになる。滞在時間が十分にとれない人には是非おすすめしたいコツだ。神社では裏に回れ、である。
石上を後にすると、柿の木が左右に植わった、長閑な田舎道が南に続いた。日本最古の国道の面影はなく、ただ、この道沿い近く一万を超すという古墳の数が、古の華やぎをにわかに喚起させてくれる。しかし、前方後円墳がそこかしこに点在する土地というのは、考えてみれば、すごいことだ。昔の偉人達の墓地をぬって自転車を走らせているとういことだけでも、目眩がしてくる。
過去にここを通った人夫の数が踏みしめた道を、自分と息子が今の時代にペダルをコキコキしながら進んでいるということは、歴史のロマンよりも、歴史の不可解さを感じてしまうのだった。かつて生きた人が、今を生きる人と足裏で重なること。記憶と存在などについて、つらつらと頭の隅で考えながら。
そして、この「山の辺の道」こそも、聖地であった。既視感もたっぷりあって、胸を詰まらせながら風景を眺めて走った。気づけば横に古墳、止まれば前にも古墳、進めば背後に古墳。そんな田舎道はここ意外にないだろう。つまり世界にも類のない歴史道であり、自分が感じる限りでは、この道が聖地である。
道というのは、そもそも多くの物資と人間が移動するためのものだが、通った人の気配が残る場所でもある。この山の辺の道は、現在でも車が入れない箇所が多く、その歩く速度によって、通った人の気配が濃く残り易いような気がする。
トレッキングなどで長時間歩いた経験のある人なら、分かると思うが、ある時間を超えると、邪念が無くなり、瞑想状態のようになる。山の辺の道は、古代から歩く人の道だ。邪念無く、人間の美しい心の気配だけが、濃く残っているような気がするし、歩いていて気持ちがいいのは、きっとそれが一つの理由だと思う。
そういう居るだけで浄化されるような土地は、やはり聖地だと言えるだろう。山の辺の道が、道すらも聖地となりえると教えてくれた。
それは、さらに言えば、聖地は、聖地に、聖なる物に、添おうとする人の心が生み出すとも言える。

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