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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#48 怒りから遠く

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 ハン師が次に述べた、「軽やかな歩み」だが、これも出来ていない人がほとんどだと思う。
 沖縄に自宅があるとはいえ、月の半分近くを東京で過ごす私にとって、交通移動中などに見かける人々のほとんどが自分の歩様に無自覚のように見受けられる。
 ちょっと古い話になるが、江戸の侍一行がニューヨークのマディソン街を歩いた時、その堂々とした様に喝采がおこったという。彼らは武士なので、つまり武道の構えなどが身についているので、姿勢が良くて当たり前だったろうが、背筋を伸ばして歩く欧米人の目から見てもその歩様がいかに素晴らしかったかが伺えるエピソードだ。おそらく侍は、緩みながらも気が満ちているような気高さを表出していたのだろう。
 私も歩様には気を付けている。姿勢を正し、前後左右に傾かず、気張らず、力まず、肩を上げず、首を固めず、肘を緩め、心を緩め、無人の平原を風に吹かれて行くかのような心で、涼しげに歩くように心がけている。歩くピッチに呼吸を合わせ、それに意識を集中しているだけで心身が軽く気が満ちてくるのだから不思議だ。歩きながら充電しているような感じといえばいいだろうか。もし自分の歩様に無自覚ならば、それは目的地までの繋ぎの時間でしかないだろう。なるべく早く、無駄なく乗り継ぎ、心身を強張らせ、遮眼帯をつけて全身するだけの時間だろう。
 だが、前記のような心算で自分を高める時間として使うならば、歩くことが楽しくもなる。
 「怒り」を否定して蓋をするのではなく、上手に付き合おうとするならば、それは自分を許すこと、自分を緩めることにもなる。二元論的に、怒りは悪であると決めつけずに、自分の中の一部だと認め、それが駄々をこねないように日頃から怒りの水位を下げておく工夫を常に楽しく試みること。その大きな二つの方法が「安楽中な呼吸」と「やさしく軽やかな歩み」なのだ。
 先日の上京中に、私は常にこれを心がけてみた。結果はいわずもがなである。無理やりポジティヴになろうとしなくても、自然にその様にセットされているという実感があった。空気を胸の奥まで吸い込んで、ゆったりと長く吐き出す時に肩や全身の緊張を解く。それを数回から10回繰り返す。終わると自然に心身がやさしくなり、微笑みたくなる。歩く時はゆったりとやさしく軽やかに。
 



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