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藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#7 あの日のジャブ




 人を殴りたい時がある。
 そう呟くと、時子はキックボクシングジムを紹介してくれた。
 無料体験レッスン、というのを生まれて初めて受けてみると、そんなに怪しいものではなかった。ただほど高くつくものはないという思いから、無料体験レッスンをハナから怪しいものだと決めつけていたのだ。
 時子はすでに3年も通っていて、古株に加わっていた。わたしをトレーナーの紹介すると、自分のトレーニングの準備を無駄のない動作でやり始めた。その雰囲気はなんだか時子を少しだけ遠い存在に感じさせた。わたしもいつかはああいう雰囲気を醸し出せるのだろうか。


 20代前半の色白・角刈り、中肉中背、細目の今井というトレーナーは、最初にジャブというのを教えてくれた。
 じゃあ、ジャブから入ります、と言われても何のことだかさっぱわり分からなかった。格闘技には全く興味がなく縁遠かったからだ。
 トレーナーはわたしが左利きなのを知ると、右腕で細かく出すパンチがジャブなのだと教えてくれた。
 はい、ジャブ、ジャブ、ジャブ、そう、そういう感じ、はい、ジャブジャブ!脇を閉めて素早く出し、素早く引っ込める!そう、いい感じ、はい、ジャブ、ジャブ。
 わたしはコーチが連呼するジャブの語感に洗濯洗剤を連想しながら、ジャブを打ち続けた。色白角刈りの今井は、キリリと目を光らせ、口を一文字に固く結び、ミット?とかいうものを手にはめて、わたしのジャブを受け続けた。
 横田さん、結構パンチありますね、何かスポーツやってました?とか言うので、学生の時相撲を少々と答えると、はあ、す、相撲ってあの相撲ですか?と返してくるものだから、
はい、横綱でしたと言ってやった。
 近くでシャドウボクシングをしていた時子は振り返り、呆れた顔を浮かべた。
 突っ張りが得意でした、とわたしが続けると、今井は、だからなんですねーと語尾を間延びさせた。初めてにしては鋭いジャブだなあと思ったんですよー、と今井は再び間延びした。
 人っていい加減なものだ。同調し、話を繋げ、自分の意見を挟み、同調し、話を繋げる、を繰り返しては、そこにある空虚を露わにしている。



 今井さん、冗談ですよ、山野さんて真顔でそういうこと言うから気をつけてください。
 時子が髪を後ろに束ねながらこちらを見ずにそう言った。今井さんは、驚いた顔で時子とわたしの双方を順番に見つめた後で、さ、ではトレーニングに戻りましょう、と冷静を装って言った。


 なんであんなこと言ったの?トレーニングを終えた後、適当な居酒屋で最初のビールに口をつけてから、時子は割と真顔で言った。
 さあ、わからない。流れでしょ。
 流れって、どんな流れだよ?
 さあ、そんなことどうだっていいじゃない。それより、時子ってキックボクシングやってる時、いつもと違って相当かっこいいね。
 そう?
 そうだよ。わたしが男だったら好きになっちゃうよ。
 え?逆でしょ?格闘技が様になっている女なんて変じゃない?なんでそんなことになっちゃったの?て思われるよ、きっと。なんか、仕事も男もいまいちで、それでも個性を保ちたくて格闘技選んだ感じしない?
 え?そんなふうに誰かに言われたことあるの?誰もそんなふうに思わないよ。それよりも、汗をかいてストイックにサンドバッグを蹴り上げたり、トレーナーのミットに鋭いパンチを打ち込んだりしている姿に色気を感じるよ。
 それは美人だったらあるかもね。きっと美人だったら囲碁でも海釣りでもセクシーに見えるんだよ。でも確かに汗を滴らせているのは直接的かもね。でもそれも美人だったらの話。
 わたしは、時子が暗に美人だと言ってもらいたいのかと一瞬思ったが、そんな時子でないことは百も承知だったので、そこは聞き流しておいた。





 ところでさ、
 そう言ってから時子は目を閉じて一時停止した。それは彼女が楽しい話題に帰る時に見せる仕草であった。
 今井くんてよくない?
 あの色白で角刈りのトレーナー?
 そう、今井くん、よくない?
 あ、全然わたしタイプじゃないかも。
 でしょ?きっとほとんどの人はそう言うよね、きっと。
 うん、ほとんどの人はそうだよ。全然かっこよくないし。なんか、部活っぽすぎない、全体的に。
 そう、そうなの、部活臭すごいよね、今井くん。それでさ、ちょっと童貞臭もするよね?ね?するよね?
 どうていしゅう?気持ちわりぃ。
 わたし、ノーマーク物件の中からお宝物件見つけるの得意じゃない?昔から。
 それ知らないけど、ノーマーク物件ねえ・・。確かに、確かに。あれには普通いかないよ。すごいのは体だけだしね。
 そ、そこなのよ。童顔なのにナイスバディでしょ?
 なんか、それおっさんぽいね。その組み合わせに反応しているの。でも、もうこの話題変えようよ。酒が不味くなるよ。あのトレーナーと時子がどうなっても、わたしは関与しないから、どうぞご自由に。
 ところで、ヨコタは年下っていくつまで離れたことある?
 離れたことある?
 付き合った年下の男との最大年齢差。
 あ、そういうことか。わたしはないな。
 ないの?
 ない。
 それは貧しい人生だね。
 貧しいのか。
 貧しいよ。
 私たちは二杯目のビールに口をつけた。
 ひとまわり違うと、やっぱり違うんだよね。今井くんの筋肉の張り、わかるでしょ?
 だから、この話題はやめよ。きもちわりいよ。ところで、キックボクシングって面白いね、思ってたより。わたしは、あのジャブってやつが好き。あと膝蹴りももっと上手くなりたいって思った。
 ああ、そう。ジャブが好きって話題、変じゃない?
 今井の筋肉よりはいいだろ?で、時子のトレーニング見せてもらったけど、めっちゃかっこよかった。なんか、プロみたいだったよ。なんていうか無駄な動きがないっていうか。


 その時黙って聞いていた時子の目が突然輝いて店の入り口の方へと注がれた。今井が、どもども顔をして会釈のようなお辞儀をぴょこぴょことこちらによこしながらやって来た。
改めてみると、見事な童顔ナイスバディである。





 四人用テーブルに向かいあって座っていたわたしと時子だったが、今井は時子の隣に当たり前のような顔をして座った。
 ああ、本当にそういうことだったんだなと分かった。気持ちわりいのは消えなかったが、親友の男なら認めないわけにはいかない。ある程度は。
 横田さん、お疲れさまでした!ビールが運ばれてくると、今井は体育会系の発声で右手でグラスをあげた。左手の指はグラスの底を押すように添えられている。完全に年下、服従の仕草なのだった。
 かんぱーい。渇いた声で私たちはグラスを重ねると、とりあえずの共通の話題であるキックボクシングから会話はそろりと慎重に始まった。
 身長は180ちょいで、もちろん細マッチョ。年齢は会話の中で21だと知った。時子とはおそらく13の年の差だ。心の中で思わずにはいられなかったのは時子の旦那のことだ。わたしの学生時代の彼でもあった時子の旦那。
 わたしの頭の中では人間関係図が展開されている。わたしは現在恋人なしだから、その人間関係図の中で、わたしと実線や点線で繋がっている人はいない。対して時子は実線で今井と繋がり、おそらく点線で旦那と繋がっている。羨ましくはないが、なんとなく不機嫌になりそうだった。
 話題はプロティンやBCAAやアミノ酸、クエン酸、などに移り、好きな品名などがあがりながら、なんだか退屈な方向へと流れていた。
 こんなことってあるのだろうか。続いて現れたのは時子の旦那だった。旦那はもう一人若い同僚らしき男を連れていた。驚いたことには、旦那はその若い同僚と手を繋いでいたのだ。
 二人は椅子をひとつもらって四人用テーブルに加わった。
 わたしにはこの状況を迅速に処理して理解する能力が欠けているようで、一時停止してしまった。
 わたしの描く人間関係図に、時子の旦那でありわたしの元彼でもある男の若い恋人が加わった。旦那とは、しっかりとした実線で結ばれて。
 もちろんその図で孤立しているのはわたしだけである。あ、いや違う。わたしは時子と波線で結ばれているのであった。友情という情によって。だが、その線は、童顔ナイスバディが描く実線や、旦那と恋人が描く実線や、時子と旦那が描く点線に比べると、コンビニのショートケーキぐらいの輝きしかないのであった。
 そんなことを考えてちょっとだけうつむいていたわたしが顔を上げると、トイレに立つ時子の背中に手を添えていた今井と目が合った。こいつとはないなと思った。言われた通りにジャブは打ってやるけど。




#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。

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