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藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#47 沼の深さ




スバル360なんだよ、と言う弟の声には珍しく張りがあった。
俺みたいな旧車好きにとって、やはり見過ごせないんだよねスバル360は、と張りを失わずに続いた言葉には、無邪気さがあった。そうなんだよな、弟は子供の頃から趣味人だったっけ。収集癖は、おそらく父親譲りだろう。そして飽きっぽさも。

 
去年の年末に彼女と別れ、助手席に座らせる人に欠いていたのか、珍しくわたしを連休のドライブに誘ってきた弟の表情は、意外にも晴れ晴れとして見えた。その源泉が、スバル360に因るのか、彼女と別れてすっきりしたことに因るのかは、見当もつかなかったが、慰め下手のわたしにとっては好都合だった。
弟の運転技術のせいか、スバル360の個性なのか、それとも整備のせいなのか、乗り心地は良いものではなかった。少なくともわたしの感覚を基準にしたら、馬よりはましかな、といった程度であった。だが、その素朴な乗り心地こそが、旧車好きとやらにはたまらないらしく、機械だよな、やっぱり機械はこうでなきゃらしくないよな、などと弟は自画自賛するようにスバル360を持ち上げ続けた。
それが自分の興味のない分野だとしても、ただ純粋に、時に目を輝かせ、声を上ずらすほどに熱意を込めて語る事柄というのは、聞いていると次第に引き込まれ、楽しくなっていく。子供の頃から、カードだとか、ゲームだとか、自転車だとか、様々なことを熱く語ってきた弟の無邪気さがなおも健在なことに、わたしはなんだか嬉しくもあった。まちがいなく、この没頭力は彼の魅力なのだと、姉は思った。
 

ほんの1時間くらいの距離だよ、と言われていたが、実際には渋滞もあって30分ほど余計にかかった。
このてんとう虫くんは、1958年から1970年まで製造されたモデルで、スバルの前身の富士重工の製造、つまり航空機製造で培われた技術が活かされているんだよ。ちなみに「てんとうむし」というのは、この子の愛称で、ほらフォルクスワーゲンのビートルってあるじゃない、カブトムシ、それに対してという感じで、てんとうむしって呼ばれてるんだけどね。
弟は、おそらく100回以上は同じようなセリフを誰かに言っているはずだ。淀みなく、まるで販売員のような口調でハンドルを軽やかにさばきつつ、姉にうんちくを語り始めた。
ほら、国民車って言葉があるじゃない?このてんとうむしくんは、日本初の国民車とも言われていて、安価で必要十分な感じが受けて、自動車というものが日本に初めて普及するきっかけとなった車として、ある意味、文化的な価値として歴史的なものなんだよ。60年代の日本の風景には、無くてはならないものだし、この曲線の美しさ、ミニマリスト的な簡素さは、ファンがいまだに多いんだよ。分かるでしょ?
姉は、弟の長い長い解説を、目的地に到着するまで聞かされ続けるのだが、弟可愛さというのは、なぜか今になってもすり減ることはなく、ある意味、子供の話を聞いてあげるような受け皿としての自分のキャパを確認できて楽しくもあった。
さあて、そろそろですなー、と弟の口調が急におっさんぽく変化すると、バス道から畑の間の道へと、てんとうむしくんは入り、ビニールハウスが並んだ区画の角を何度か曲がると、前方に田んぼが開けた。


「姉ちゃん、やとって聞いたことある?谷に戸と書いて谷戸なんだけど、この辺の地形はまさに谷戸なんだよ。」
「へええ、そうなんだ、知らんかったけど」
「うん、横浜は、まさに谷戸のメッカで、めちゃくちゃ多いんだよ。ほら、横浜って丘陵地が多くて、その丘陵地が侵食されてU字型になって、三方を丘、一方が谷になって抜けているのが谷戸の典型なんだ」
弟はどうやらその谷戸とやらにもはまっているらしく、それは販売員のような解説口調へと変化したことからわかった。スバル360に運ばれてやって来た本日の谷戸は、弟の一番のお気に入りで、彼曰く、最も気がいい谷戸なんだそうだ。
弟は、路上に縦列駐車してあった数台の端にてんとうむしくんを止めた。迷いのなさから、おそらくいつもの駐車場所なのだろう。駐禁とか大丈夫?と言いかけたが、そんなことは承知なはずだから、やめておいた。姉気質のせいか、つい転ばぬ先の杖的なことを言いがちで、言葉が多すぎておせっかいだと弟が中学生の時に言われて喧嘩になったことが脳裏をかすめた。





弟は、半歩先を進みながら、谷戸の解説をしてくれた。
田圃沿いを歩き、やがてU時の股部で沼が出てくると、急に弟は口をつぐんだ。その小さな沼をやり過ごすと、丘の尾根へと続くじめじめした森の中の上り坂を進んだ。ギイギイと不吉な鳴き方をする鳥が頭上の枝から別の枝へと何度か往復して、私たち2人を威嚇しているかのように思えた。怒っているのかな、と弟に訊ねると、ヒヨドリはいつでもあんな鳴き方だよ、とこともなげに答えた。


深い影の底に沈んでいるような沼の先の森の湿地帯から尾根に出ると、日差しがあって急に明るくなった。沼周辺と尾根とでは、おそらく5度くらい気温が違うのではないか、と思われるくらいに温かく、山歩き自体に慣れていないわたしには、少し大袈裟に言うなら救われたような気さえした。
あったかいねー、太陽って素晴らしいね、あの沼のあたりは寒くてちょっと陰気だったしね、とわたしが大きめな声で言うと、弟は、ああ、と少し不機嫌そうに返しただけだった。その時は、弟のその態度に何も感じなかった。
しばらく尾根を行くと、360度樹々が視界に広がっている地点へと出た。一般的な横浜のイメージとは真逆の景色に、私たち2人は、山梨とか長野だよね、本当に横浜?などと口にしては微笑んだ。
さらに行くと、落葉して枝ばかりになった樹々の向こうの眼下に田んぼが見えて来た。このまま深い森が続くような気がしていたわたしは、突然夢が覚めたように思えた。あーあ、もう少し歩きたかったな、と独り言のように呟くと、右手に田圃ではない方向へと降る道があるのに気づいた。わたしは、少し先を歩いていた弟を制するように、ねえ、こっちの道を行こうと、声をかけると、返事を待たずに降り始めた。
え、まじ?と背後で呟く弟の声を意に介さずに、わたしはすたすたと軽快に降りていった。途中で振り返ると、気乗りしないのが顔に出ている弟と目が合った。もともとこういう里山の道に誘ったのは弟なのに変だと思いはしたが、そのまま降りて行った。



その道は、細く、そして人が踏んだ気配が少なくて、落葉が幾重にも積もっていた。そして、斜面を降り切ると、別の沼が左手に現れた。その姿を見た瞬間に、弟が気乗りしない素振りをしていた理由がわかった。最初に通った沼よりも小さくて、人の気配はなく、そしてより陰気な沼だった。もともと怖がりなのに、その時のわたしは探検でもしているような楽しさの方が勝って、その陰気な沼の縁に沿った道歩きを、やばいねここ、やばいよ、などと口にしながら、ちょうどお化け屋敷をキャーキャー言いながら楽しんでいる女子高生のように進んだ。
弟は、わたしのはしゃぎっぷりをよそに足元を見つめながら黙って歩いていた。その真剣な表情に、あれ、弟ってこんなに怖がりだったっけ?と訝しく感じたが、さほど気にせずそのまま進んだ。
その沼は小さかったので、数分もせずに抜け、間もなく田んぼ沿いの明るい道へと出た。弟はようやく我に返ったかのような安堵の表情を浮かべ、はあああーっと大きく息を吐いてみせた。わたしがそれへのリアクションとして、やばかったねー、沼!と笑顔で言うと、うん、やばかっったーと弟も笑顔を返した。
冬の日照時間は短い。まだ3時なのに、すでに太陽は日没への階段を降り始めていた。
スバル360に再び乗り込むと、それぞれのマイボトルから、コーヒーを飲んで一息ついた。
この小ささって、逆に落ち着くかもね、とわたしが本心からそう口にすると、ほらほら、そうなんだよ、乗れば良さが分かるのがスバル360だよ、と弟も嬉しそうだった。
これって何人乗り?と言いつつ私がリアシートの方を振り返ってみると、ちょうど弟側のリアシートが濡れているのに気づいた。いや、ただの染みがそう見えたのかもしれない。
「一応定員4名です。まあ、昔の日本人は小さかったからね」と弟は笑った。





帰り道は、休日にしては渋滞もさほどではなかった。
すでに往きでスバル360の解説を言い尽くしていた弟は、無口であった。わたしも睡魔に引っ張られてはいたが、弟も眠いはずだからとどうにか持ち堪えながら、交通量の多い道を、ぼんやりと眺めていた。
弟が、ゆったりと重そうに口を開き始めたのは、あと30分もすればわたしの住む池尻に到着しそうな辺りだった。
「今日、楽しかった?」
「うん、楽しかったよ。横浜にあんな田舎があるとは知らんかったし。行って良かった」
弟はわたしの言葉をしっかりと聞いているようではなかった。その先に用意されている話へとすでに意識が向いているのがわかった。
「でさ、実は、俺、最近あの谷戸にはまっててさ、なんていうか、そんなに行きたいわけじゃないのに、気づくと、時間をつくって向かっているわけ」
「へえ、そうなんだ、でも分かる気がする。あそこ、いいとこだしね。日常のストレスを溶かしてくれるよね」
「なんかさ、調べたんだけど、昔って、農村って貧しかった時代があったじゃん、で、口減らしってあるんだけど、そん時に、あの沼に子供が沈められたらしいんだよね、まあ、事実かどうかは分からないんだけどさ」
 わたしは何も言えなかった。2つの沼を歩いていた時の弟の様子を思い出した。
「で、姉ちゃん、どう思う?俺、あの辺、行かない方がよくないかな、って思うんだけど、でも気づいたら、向かっちゃってるんだよね。だから、今日は、姉ちゃんにどう思うか訊きたくてさ」
「だめだよ、行っちゃダメだよ。気づいたら向かってるってやばいじゃん、それ」
「だよな、やっぱり。でも実際そんなにヘビーな感じじゃなくてさ、コンビニ行こうかなくらいな。だけど、週1なんだよ、すでに。でも、行くのは最初の沼だけ。2つ目のは、俺苦手。だから姉ちゃんが向かった時は、勘弁してくれって感じだったんだけどね」
「なんで、言わないの?止めてくれてよかったのに。とにかく、しばらくは行かないで。で、どうしても行きたくなったら、連絡して。その時は一緒に行くから」
「うん、実はその言葉を待ってた。1人で通ってたら、何か連れて来ちゃうような気がしてたから。でも、もうなるべく行かないようにする」


池尻でてんとうむしくんを降りると、その小さな姿がさらに小さくなっていくのを見送った。あの可愛い小さな車が元来た道を辿れば、1時間ぐらいであの沼と繋がってしまう。弟に、運転気をつけてと言い残して、車を降りる時にリアシートを見たが、相変わらず染みのようなものがあった。乾かずに湿り続けているというのは、そこに何かが存在して座っているのだろうか。それともただの染みなのだろうか。そのことについて弟に伝えるべきだろうか、と思案していると、初台の家に着いたと弟から連絡が入った。
「ねえ、ちょっと言いづらいんだけど、てんとうむしくんのリアシートに染みとかあるよね。濡れてるように見えるやつ」
「ああ、気づいた?あれ谷戸に行くと必ず濡れるんだよ。でも明日には乾いているから大丈夫」
わたしは何も言えなかった。少しだけ、間に合わなかったのかもしれない、と感じたが、まだなんとかなるだろう、とも感じた。
「絶対沼の水に触っちゃだめだから!」
不意に自分の口から出て来た言葉は、荒々しいものだった。わたしの中にも誰かが入っている。
 





藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。


#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
#24 南極の石 日本の空
#25 縄文の初恋
#26 志織のキャップ
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#28 うなぎと蕎麦
#29 その部分の皮膚
#30 ZEN-は黒いのか
#31 ブラジリアン柔術
#32 貴様も猫である
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#37 0歳の恋人20歳の声
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