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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#9 ノーリプライ




 ランニング雑誌を静かに閉じた。
 ボーズのブルートゥースイヤフォンから流れていた「ノーリプライ」がサビのフレーズに差し掛かったからだ。
 ジョンレノンと仲間達が歌うメロディの少し後からハンドクラッピングが追いかけ始めると、いつもうっとりしてしまう。失恋の曲なのに明るいアップテンポのメロディ。失恋の曲だからか、明るいのになぜか切ない翳り。四人の手のひらが打つハンドクラッピングが、場違いな陽だまりのようで、その甘く切なく、なんだか激しく、そして「雑な」風合いに、いつもうっとりしてしまうのだ。
 10代の男の子たちが部活後に汗の匂いと共に電車に乗り込んで、好きな女の子の話で盛り上がっている、あの青臭く眩しい風景に似ているが、この曲を作ったのはイギリスの男の子たちだからフッシュアンドチップスのビネガーの香りも思わせる。
 そんなたわいもない想像を膨らませながら、「ノーリプライ」のサビの部分を何度か繰り返し聞き、うっとりしていた水曜日の午後だった。


 20も離れた年上のボーイフレンドは、今週は忙しくて会えないのだと、昨日伝えてきた。
「音楽は、あきらめてる」と4回目のデートで呟いたわたしの気まぐれな言葉に、彼は強い好奇心を示して、これを聞いてごらんと、差し出されたのが、「フォーセール」というアルバムだった。誰の?と尋ねると、ジョン・レノンとその仲間達、と彼が答えた。
 音楽を好きになるのをあきらめている、そんなわたしの言葉に今までどれだけの人がお気に入りの曲を差し出してくれただろう。
 それぞれが自分の思い入れたっぷりな曲を勧めてくれるのだが、音楽不感症なわたしの心を動かす曲などなかった。ブラームスやアマデウスに始まって、ロジックまで辿り着いたのだが、見事になーんにも感じないのであった。
 一応、なんか、良かったです、くらいは返すけれど、その言葉を繰り返すたびに、虚しさにぎゅっと包まれるのだ。


 そんなわたしだった。「ノーリプライ」を聞くまでは。





 ジョン・レノンを知らないと言うと、20年上の男は気怠い処理をそそくさと済ませ、シャワーも浴びずにスマホをいじり始めた。
「君は今まで損をしていたね。でもこれを聞けば、これからは音楽の喜びが死ぬまで君につきまとうんだ」
とか、変な表現を口にしながらホテルの備品であるJBLのポータブルスピーカーにブルートゥースを接続した。


THIS HAPPENED ONCE BEFORE


 前奏もなく、突然そう歌い出すジョン・レノン、コーラスと演奏を被せるその仲間達。60年代の音楽というのだから、少なくても50年以上昔に作られ、録音された音楽だ。ジョン・レノンはこの時まだ20代の若造で、現在の私よりも年下である。殺されていなかったらそろそろ80歳のじいさんだ。50年前の音楽、当時20代、生きてたら80歳くらい。数字をいくつか並べると眩暈がした。だがしかし、これらが合わさって、2019年のわたしの心を「ノーリプライ」が揺さぶったのは確かだ。サンキュー、ジョンさんと仲間達。


 わたしは、水曜の午後をこんな気持ちで過ごしていた。
 音楽ってすごい。縮こまっていた心を大きく広げてくれるし、遠くへと連れて行ってくれる。そう、今まで知らなかった場所へと連れて行ってくれる。
 だが、結局「ノーリプライ」だけなのだった。わたしが心を動かされた唯一の音楽。「フォーセール」とうアルバムを全曲通して聞いたけれど、他はぱっとしなかった。音符が連なるゴミが増えただけだった。
 あの日、あの場所で、ノーリプライを教えてもらった直後に、そのことをボーイフレンドに伝えると、快活な笑い声のあとで怪訝な表情がやってきた。
「ノーリプライ」が刺さるなら、他の曲達もきっと刺さるでしょ?
 でしょ?のイントネーションがゲイバーのママみたいで笑えたけど心の裏で済ませておいた。ボーイフレンドは怪訝な表情なままで腕組みまでし始めた。
「でも、ノーリプライは良かったんだよ、わたしが初めて感動したんだよ、音楽で。すごい、すごい、ノーリプライってすごい」
ボーイフレンドは、わたしがベッドに座ったまま上下に揺れながらそう言うと、乳房の揺れに心を奪われたのか、
「ま、そうだな。ひとまずは前進だな」とか、全てに進行方向があるかのように言い、わたしの右の乳房を即物的に握った。そして、冷房を下げて、とかでも言うような口調で、くわえて、と言うのだった。ボーイフレンドは、勝手に仰向けに寝そべり目を閉じた。わたしは、やだ、と言いながらその指示に沿った。
 そんなことがあってから半年が過ぎたけれど、わたしとボーイフレンドは毎週会って、まあまあ楽しく過ごしている。彼には家庭があるのに、それにしてはよく会ってくれてると思う。でも、そこに感謝などは毛頭ない。 
 ボーイフレンドは時々、僕もここに来るのは結構大変なんだよ、とか言う。きまって事が済んだあとにポツリと言うのだ。そのたびに、あーあとわたしが落胆していることを彼は知らない。そんなこと聞きたくないよな。彼にしてみれば、大変さを乗り越えてまで君に会いたいのだ、といわば愛情表現のつもりらしいが、まあ女々しい。女のわたしが、相手を女々しいと罵るのだから、彼には多分に女々しいところがある。
 長くないな。そう感じることの切なさよ。

 



 どうでもいいような軽いラブソングが好きなんだ、とある夜、会話の脈略を無視してボーイフレンドがいきなりそう言った。いつか言ってやろうとでも思っていたかのような切り出し方に、わたしが吹き出すと、彼は怪訝な表情を浮かべた。真剣さは時として滑稽に映るかもしれないけど、と50を過ぎた男は白いものが多くなった髪を撫でながら言った。
 ジョン・レノンと仲間達の音楽はね、と彼はめげずに持論を展開する気が満々であった。
「軽いラブソングの話?」
「そう、軽いラブソングの話。つまり重いラブソングの話なんかはしない。中島みゆきとかじゃない」
「誰それ?重いラブソングの人?」
「まあ、そうだ。で、中島のことは今はいい。ジョンとその仲間達の初期の活動のほとんどは、軽いラブソングに費やされている。そして、それは何枚も何枚もアルバムを出すほど続くんだ。」
「ふうん、それで?」
「で、だ。僕はジョンと仲間達が活動後期に哲学やインド思想にのめり込んだり、ドラッグの影響で作った多彩な音楽は、それはそれで好きなんだが、なんといっても彼らの初期のたわいもないメロディアスな明るいラブソングこそが大好きなんだよ。当時のアイドルソングってやつだな。若い女の子が感情移入してキャーキャー騒ぎたくなるやつ。そういうのがいい。それをアコギ一本で淡々とカバーしている歌手がいるんだけど、それがまたいいんだよ」
「へええ」
わたしはそうとしか反応できなかった。嫌な予感がした。
「その歌手って誰?」
「え?へへ。え?聞いちゃうの?」
嫌な予感は当たっていたようだ。
「その歌手って?」
「もちろん、僕です!」


 ボーイフレンドとは、お互いの職業などについて探らないことが暗黙の了解になっていたが、会話から、この人の職業がミュージシャンであることは察しがついていた。
「今まで隠していたけど、僕は音楽をやっていて、そんなに売れてないけどアルバムを二桁出している。で、新しいのはジョンレノンと仲間達のカバー集でさ、年配層にはそこそこ売れているんだよ。で、再来週の金曜日にライブがあるから、来ない?ちょうど僕のバースディだし」
 バースディ?わたしは返事もしなかったし、頷きもしなかったのに、彼は勝手に勘違いしたのか、チケットは三枚用意しておくから、友達も連れてきてね、とか言うのだった。三枚?


 総合的に見て、ボーイフレンドは変わってはいたが面白い人であった。50過ぎても、いい意味で固まっていなくて、自由な人である。でも時々、あーあと落胆することがあり、わたしはそのたびに、「長くはないな」と思うのが最近の常だった。
 わたしは彼の「バースディライブ」とやらはパスするしかない。なんといっても音楽が好きではないからだ。ライブは地獄である。みんなが一斉になってステージに向かっている様子は、受け入れがたい。愚かで低級だとさえ思う。
 きっと彼からは、どうしてこなかった?とメールがすぐに来るだろうが、わたしは返さないだろう。それが別れの合図になるのかはわからないけど、そこまでやってみると決めている。あとはなるようになれ、だ。
 彼はわたしとの出来事を思い返すだろう。そして、わたしが「ノーリプライ」を好きになったことも思い出すだろう。わたしは彼にいつか言う日が来るのだろうか。
 実は1ミリもあの曲が刺さっていなかったことを。わたしは音楽なしで生きてゆく。






#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。

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