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text by M
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#48 ガレットの前後




表参道にある老舗の洋菓子店を指定したのは、山崎くんだった。
呼び出された麻美とわたしは、共にピラティスのインストラクターで、2人で小さなスタジオを千歳船橋で共同経営している。開業して2年。つまり、コロナ禍での厳しいスタートだったが、巣ごもり需要にオンラインクラスがうまくはまって、まずまずの利益をあげている。
山崎くんは、どうやらそこに目をつけたらしく、彼の始める新規事業にわたしたちを誘う目的でのミーティングだった。
これ、うまいよ、という山崎くんの言葉に釣られて、麻美とわたしはガレットのモーニングセットを注文した。
こういうのって面倒くさいよね、と山崎くんが不満をもらしたのは、ペーパーレスメニューに対してで、QRコードを読み取って、スマホでメニューを開くことを強要されるのは、お客にひと手間を負わせる点でどうかと思うと山崎くんは言うのだった。麻美とわたしは、その意見というか、ぼやきに同調し、ざっとメニュー全体を見渡してから選ぶのに慣れているから、小さな画面をスワイプしたり戻ったりするのは、客観的に見ても煩わしい。
スマホをいじる煩わしさもあって、山崎くんのおすすめに従うことにしたのだが、しばらくしてテーブルに届いたガレットの美味しさは、ペーパーレスのなんちゃらを瞬時に忘れさせてくれた。


そのミーティングの集合時間は、開店時間の朝の10時だった。
麻美とわたしは口々に、「朝から贅沢だよね、」とか「今日はいいことあるね、」とか呟きながら、ガレットという食べ物の大切さを深く感じ入っていた。
山崎くんも食べたらよかったのに、と、麻美が言葉を向けると、この後の打ち合わせがフレンチだから、と素っ気なかった。道理で今日は綺麗なジャケットを着ているわけだ、とわたしは腑に落ちたが、それは口にしなかった。
昼からフレンチなんて、なんだか羽振りがいいねー、と麻美が言うと、羽振りがいいから、君たちにいろいろお願い事を持ってきたんだと、ちょっと嫌な言い方を山崎くんはした。学生時代から彼をよく知っているわたしは、そういえば、昔からのこんな言い方するよな、と思い出し、そこに悪気は全くないことも思い出していた。
食事も半ばを過ぎて、なんとなく話ができそうなタイミングになった時に、手元のカプチーノをほぼ飲み終えてしまった山崎くんは、急にとぼけたような表情になって、こう切り出した。


本題に入る前にさ、ちょっと話半分で聞いてもらいたいことがあるんだけどさ、今朝、不思議なことがあって、君たちがどう思うか知りたいんだ。
わたしと麻美は、フォークとナイフを皿の上で一時停止させた。この後の話の展開次第では、再始動するか、手をナイフとフォークから離して聞くことに集中するか、そのエッジにあった。
僕はさ、電車派なんだけど、それはつまりバス派に対してではなくて、都内の移動は車を使わないってことで、それは適度な運動のためでもあるんだけど、まあそれは置いといて、今朝の不思議なことは、電車の中で起こったことなんだ。
わたしと麻美は、なおも一時停止の姿勢を保った。



最初は新宿行きの各停に乗ったんだ。自分の最寄駅は急行が停まらないからそうなるんだけど、ええと、どこからかな、もう少し手前からの話だな、ええと、まずその女の人を見かけたのはホームへと続く下り階段で、僕はちょうど上の方からホームを見下ろす形で降りていこうとしたんだ。そしたら、前方の眼下をすらっとした女性がホームへと降りたつ辺りにいて、何気ない感じで僕の方を、つまり階段の上の方を振り返ったんだ。そして、僕と目が合ったんだけど、それがつまりこの不思議な話のはじまりでさ。
わたしは、山崎くんの話が退屈そうだと察知したわけではないけれど、食欲に負けてナイフとフォークを動かして、ベビーリーフとアンチョビチーズを絡めてガレット口に運んだ。その時、麻美と目が合ったのだが、彼女はナイフとフォークから手を離して、一旦口元をナプキンで拭った。麻美がわたしに向けた視線の中には、クライアントになるかもしれない人の話をしっかり聞くのはマナーだと訴えているようであったし、実際そうだったと思う。山崎くんの話は続く。





その振り返った人は、外国人で、白人で、40前後っていう感じだった。僕が使うその駅は、案外外国人の利用客が少なくて、だから、珍しいな、と印象に残ったんだよね。そもそも。で、その後は、入線してきた各停に乗ったんだけど、同じ車両内の少し離れたところにさっきの外国人の女の人がいて、また目が合ったんだよ。で、あ、またあの人だな、くらいは思ったんだ。まあ、そんくらいは誰でも思うよね、きっと。
わたしは、うんうん、と首を上下に深く振って、しっかり聞いていますよ、とアピールしつつ、その大きな動作に紛れて、もう一口ガレットを口へと運んだ。当然、麻美とも目が合ったのだが、彼女の心はその二つの眼球に露出していて、いったいいつまで食べてるの?その食い意地をどうにか引っ込めて!と訴えているようだったし、実際そうだったと思う。山崎くんの話は続く。


で、それからいくつか先の駅で、快速急行に乗り換えたんだ。ほら、この待ち合わせに間に合うようにするためには、そうする必要があったからさ。で、乗り換えたと。で、混んでいたと。だけど、人の視線を感じて、その方を見ると、さっきの白人の彼女がいて、こっちを見ていたんだよ。で、僕は、ああまたいるんだな、と思ってさ。でも進行方向が一緒だったらこんなことは、普通にあることだから、僕のことに興味があるのかなとは考えなかったし、ただの偶然だけど、よく目が合うな、普通は同じ動線だとしても、そうは合わないよな、くらいは思ったけど。
わたしは、このへんまできて、あれ、山崎くんてこんな感じだったけ?でも、久しぶりだし、羽振りもいいらしいから、ちょっとくらいは変わってるはずだろうな、って感じて、ようやくナイフとフォークを置いた。


その車両はさ、結構混んでいたんだけど、わりと遠くにいた彼女がわざわざ僕を見ていて、僕もそれに気づいてって、なんとなく印象的でさ。それでも僕は、ああ今日はこの人とよく目が合うな、でも昼前にはこんなことがあったことも忘れちゃうんだな、と感じていたんだ。まあ、日常ってそんな感じじゃん?小さな出来事って、埋もれていっちゃうし、少し大きめな出来事も、日常のスピードにふるい落とされちゃうよねって感じでさ。
わたしは、これって歌詞かな、どこかで聞いたことあるような、日常のスピードにふるい落とされちゃうよね、って歌詞あったよな、と思いはしたが、口には出さずに、ちょっと長えな、とは思った。麻美とは目が合わなかった。山崎くんの話は続く。


で、やがてある駅で、乗客がどどっと降りたわけ、ほら、あるでしょ?霞ヶ関とか、どどっと降りる駅、あんな感じでさ。多くの人が勝利の方へと向かって進んでいく中で、残された乗客は、安堵と不安を感じちゃうような状況でさ。で、僕は、なんというか、がらんとした車両で、やれやれって感じで、世界を支配する1%にでもなったような気分で、空いたシートに座ったんだよ。
麻美がわたしを見る視線に気づいた。そこには、フォークとナイフをああしろこうしろという意味はなく、なんなのこれ?この話、どうすりゃいいの?というのが露出していたので、流そう流そう!と眼力で返答しておいた。そして、硬くなっていくガレットを憂いていた。


で、座ったんだけど、そうしたら斜向かいに、例の、あの白人の女の人も座ったんだ。僕は、あれ、まただね、いい1日を!と目で語ろうとはしないで、割とフラットな感じで1.5秒くらい見てから目を閉じたんだ。彼女の方はと言えば、彼女としては、あれ、まただね、いい1日を!と言いかけていた風だったけど、僕は、なんとなく目を閉じてしまったんだ。ほら、長い間立っていて、座った瞬間に、やれやれ、座るって快適だな、と目を閉じちゃう感じ、その感じだったんだ。意味はなかったんだよ、ほら拒絶とかさ、そう意味じゃなくてさ。
へえ、ありそうでなかなかないですよね、そういうのって。
わたしは麻美がそんな相槌を入れるとは驚きだった。これを人間の成長ととっていいのかその時はわからなかったし、さっさとこの話を倍速させて終わらそうとする魂胆なのかどうかも窺い知れなかった。ただ、麻美は上質な微笑みを浮かべていたことは確かだった。やはり人間としての成長が彼女にはあったのだろう。山崎くんの話は残念ながら続く。





で、さ。ここが不思議なんだけど、再び目を開けたらさ、その白人が目の前からいなくなってたんだよ。
こう言った後で、山崎くんは、私たち2人の顔をかわるがわる見つめた。山崎くんの表情はといえば、研究者のように冷静で、ここまでの馬鹿みたいな口調や雰囲気は消え、ただただ、冷静なそれだった。それは、わたしたち2人に、ちゃんと考えて返事をしてほしいという圧力にもなっていた。
その女の人は、きっと席を移ったんじゃないですか?なんとなく居心地が悪くて。もしかしたら、山崎さんがストーカーと勘違いされたかもしれないですし。
麻美は、上質な微笑みが上質な冗談を生むという勘違いを、裏付けのない自信で押し通せると信じているかのように、言った。
いや、それはそれは、車両全体を体をくの字に折って、見渡したので、ないです。
麻美は、上質な微笑みを崩すことなく、ああ、そうですかあ、と返事をして、わたしの方へ視線を向けた。次はわたしの番だと。
足、ありました?その人。
うん、足は、最初の駅のホームで見た時からしっかりあった。斜向かいに座った時に、なんとなく全身をスキャンしたんだけど、底の薄いプーマっぽいけどそうじゃないスニーカーと、履き込んだ細身のブラックジーンズ、そしてデイパックに、上も黒っぽいパーカーだった。白髪も多くて、遠くで見るよりも老けて見えた、ということまで明確に覚えている。そう、足はしっかりあった。
私の1に対して、10の返答。わたしは何かを言いかけて口を半分開けたが、そもそも何も言うことはなかったから、鯉みたいになった。山崎くんはそんなわたしを追い詰めはしなかった。
まあ、それだけなんだけどね。特にオチもない話なんだけど、朝から不思議なことがあったという。うん、そういうことなんです。
山崎くんは、自分が何か失敗したかのように、最後の言葉を小さく濁らせた。
でもさ、不思議なんだけど、ほら、怖いとか、そういうのは無いんだよね。むしろ妖精でも見たかのような、なんかラッキーっていう感じかな。
わたしが、意外だったのは、麻美が再びナイフとフォークを握って、ガレットの残りを食べ始めたことだった。山崎くんの渾身の今朝の不思議話が終わるのを待っていたかのように、いや、きっと待っていたに違いないのだ、そして、そこにはこのガレットがめちゃくちゃ旨いという麻美の思い込みがある。
そんな麻美を温かい目で見ていた山崎くんは、やはりこう言った。
ここのガレット、うまいよね。
わたしは、日常のスピードを思うより他はなかった。
消えた人が向かった先よりも、どこから来たのかが気になった。
なぜなら、わたしも、わたしがどこから来たのか知らない。
 





藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。


#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
#24 南極の石 日本の空
#25 縄文の初恋
#26 志織のキャップ
#27 岸を旅する人
#28 うなぎと蕎麦
#29 その部分の皮膚
#30 ZEN-は黒いのか
#31 ブラジリアン柔術
#32 貴様も猫である
#33 君の終わりのはじまり
#34 love is not tourism
#35 モンゴルペルシアネイティブアメリカン
#36 お金が増えるとしたら
#37 0歳の恋人20歳の声
#38 音なき世界
#39 イエローサーブ
#40 カシガリ山 前編
#40 カシガリ山 後編
#41 すずへの旅
#42 イッセイミヤケ
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#44 バターナイフは見つからない
#45 ブエノスアイレスのディエゴは
#46 ホワイトエア
#47 沼の深さ

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