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藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#12 歩け歩けおじさん




 歩け歩けおじさんに出会ったのは8年ほど前だった。
 引っ越した先で、日課としている朝のジョギングに出た時に、家から程近い坂道を登ってくる姿を見たのが最初だった。
 おはようございます、と意識して爽やかに声をかけて会釈したのだが、彼は無反応で足元から1メートル先あたりの一点を見つめたまま、通り過ぎて行った。その時は、若干訝しく感じはしたものの、考え事でもしているのだろうと思って、何ら気に留めることもなかった。
 白い肌着のような丸首のシャツ、よれたグレーのズボン姿で、身長は極端に低く、150㎝ほどだった。履いているのは元は白かったズック靴で、昭和30年代の写真から抜け出してきたような人物像の方が印象的だった。年齢は70代後半といったところか。
 その後も毎朝、ほぼ同じ場所ですれ違うことになるのだが、こちらの挨拶にはいつまでたっても無頓着で、もしかしたら耳が不自由なのだろうと、ひとまず考えをまとめておいた。それでも、こちらからの挨拶は欠かさなかった。そのうち、こんにちは、と笑顔で挨拶をよこし、その上、「わしは、やたらに挨拶する者が嫌いでな、でもあんたの挨拶には真実味があることがようやくわかった、あんたとは、これから大いに挨拶を交わそうではないか」などと水戸黄門様のような笑い声を上げるのではないか、という期待もあった。
 無論、それは僕の妄想で、それが現実化する確率は、ほぼ無いことは分かっていた。逆に、そうだからこそ、フィクションを仕立てて想像する可笑しみがあるのだ。
 その後も、毎朝、僕と彼はあの坂道ですれ違い続けた。
 僕が出張で不在にする時は、出先でも続けていた朝のジョギング時に、今頃あのおじさんはあの坂道を黙々と歩いているのだろうかと思い浮かべもした。


 ある土曜日の朝、やはり僕たちは坂道ですれ違うのだが、その時たまたま居合わせた小学校低学年の男子三人組が、あのおじさんを、歩け歩けおじさんと呼んでいるのが聞こえた。僕は、吹き出しそうになるのを堪えつつ、うまいことを言うなあと彼らを少し尊敬した。あの黙々と、淡々と歩く姿は、歩くおじさんでは何か足りない。彼らが呼んでいたように、歩け歩けと連呼するのがぴったりとくる。以後僕は、彼を歩け歩けおじさんと呼ぶことにした。無論、心の中でだが。
 およそ一年が経過しても、歩け歩けおじさんと僕との間には、挨拶の交換が成立していなかった。こちらも挨拶を返されることをもはや全く期待していなかったけれど、なぜか僕からの挨拶を絶やすことはしたくなかった。その理由は単純なもので、挨拶を言うのが、気持ちよかったからだ。相手の反応がどうであろうと、感じのいい挨拶ができた時は、一日のスタートがうまく切れた気がして、今日という一日が昨日と代わり映えしないと分かっていても、小さな希望が持てるのだった。





 それからさらに一年が経過した。
 歩け歩けおじさんは、いつも同じ服を着ていた。Tシャツというよりは肌着、トレーニングパンツではなく作業着のズボン、スニーカーではなくキャンバス地のズック。おそらく散歩が終わるとすぐに洗濯して、次の日に備えているのだろう。同じセットを二組以上持っているようには見えなかった。


 定年退職前は、どんな仕事をしていたのだろう。それについては時々脳裏に浮かんでは消えたりしていたのだが、その時はなぜだか真面目に考えてしまった。体育の教員だった可能性はある。若い頃から体を鍛え続けていて、定年後もその習慣を守っているというのは退屈だが順当な推理であった。毎日同じことを繰り返すというのは、僕も同じ様なことをしているので想像しやすいのだが、自分を律することを厭わないタイプであることは確かだろう。特に何かに出場するとか具体的な目標が必要なわけではない。ただ日々コツコツと一つのことをこなしていくことに、安堵と喜びを感じるタイプだ。僕はなおも暇つぶしのような推理を続けようとしたが、もはやこれ以上は思いつかないような気がした。あるとすれば、精神を病んでしまっている可能性だ。いわゆる痴呆症のような何かを僕は想像した。挨拶を返さないあたりは、怪しくもある。だが、僕はそこで考えるのをやめることにした。なんだかいたたまれない気になってきたからだ。歩け歩けおじさんの過去がどうであろうと、ああして毎日歩き続けている姿に挨拶をできていれば、それでいい。


 改めて考えてみれば、彼と出会ってから、ほぼ毎朝あの坂ですれ違っているというのは、毎朝同じ車両で通勤時に見かける誰か特定の人とは、何かが違う気がして、貴重だと僕には思えた。僕は、毎朝その人に挨拶をしているのだから、それは大きな違いだろう。だが、それ以上に何か他にもあるような気がしていた。


 出会ってから3年が過ぎた頃、歩け歩けおじさんは、僕の挨拶に対して、時々視線をこちらによこすようになっていた。その視線には、微笑みも、蔑みも、怪訝さもなく、つまり感情のない視線だった。いわば電柱でも見るかのように僕に視線をよこすのだった。だが、それは僕には大きなことだった。数年挨拶をし続けたから、視線を向けてくれるようになったとは思わないが、少なくとも僕に気付くようになったのだ。


 僕とていい歳のおじさんである。今まで、年相応の経験を積んできたつもりだ。人から驚いてもらったり、褒められるような突出した経験は皆無に等しい。だが、歩け歩けおじさんとの挨拶話は、ひどく地味だが、なかなか無いような話ではないだろうか。僕はこれまで歩け歩けおじさんとのことを家族にすら言ったことがなかったが、いい感じのオチもついたし、そろそろ開示してみようかと密かに楽しみになってきた。

 週末の夕食時、部活や習い事に忙しい二人の娘も珍しく揃っていたので、食後にそれぞれの部屋へと離散する前に、歩け歩けおじさんの話を打ち明けてみた。
 妻と娘たちは、僕が改まった様子で話を始めたものだから、説教かと身構えた風だったが、どうやらそれは杞憂だったことに気づき、さらに話の中心がこの界隈をやたらと歩き回っている男の人だと分かると、三人とも興味に目を見開いて反応した。妻や娘たちは、なんとその男の人を既に知っていて、それぞれ別々の場所で見かけていると、矢継ぎ早に言葉を重ねていくのだった。
 誰もが共通して口にするのは、ただ歩いているだけなのにやらたと目を引く存在で、通りの反対側を歩いていても、すぐに分かるのだという。それぞれ複数回目撃していることをしっかりと記憶していて、だが誰かに伝えるほどのことでもなく、それぞれが胸の内にしまってあった記憶であった。
 思い切って三人に、僕が心の中で彼をどう呼んでいるかを伝えてみた。みんな爆笑し、それは僕の意図したことではなかったけれど、こんなに僕の一言が三人にうけたことはいまだかつてなかったので、くすぐったい思いがした。
 それはさておき、家族内でもこんな風に存在感を示しているのなら、この地域でも結構裏有名人なのではと思い至った。改めて話題になりはしないが、目撃者はそれぞれに心の中にしまいこみ、なんとなく気にしている存在。それが歩け歩けおじさんなのだろう、と。





 そして話は一年後のことになる。
 いつもの坂道、いつもの時間に、いつものように、少し前方から歩け歩けおじさんに挨拶すると、彼はなんと立ち止まったのだ。僕もつられて立ち止まったのは言うまでもない。おじさんは、立ち止まっただけでなく、「おはようございます」とはっきりとした滑舌のいい口調で挨拶を返してくれたのだ。
 僕は、咄嗟に黙ってしまい、立ち止まったのに、そうなってはバツも悪く、いい天気ですねえと空を見上げてなんとか言葉を出すが、おじさんも見上げた空には分厚い雲がどっしりと広がっていた。僕は顔が真っ赤になるのが自分でも分かった。だが、おじさんも顔が赤かった。つまり二人とも緊張していたのだ。
 それでもせっかく言葉を交わしたのだからと、妙に肝が据わった気にもなり、少し図々しいとは思いもしたが、おじさんのことを色々訊ねてみた。彼はゆっくりと何かをなぞるような口調で語ってくれた。
 要点はこうだ。彼は早くに妻に先立たれ、生前十分優しくしてあげれなかったことを悔み続け、毎日20キロ歩くことで、償おうと決心した。それがそもそもの歩く発端である。そのうち歩くこと自体が楽しくなり、そのまま毎日20キロを歩き続けている。住所は読谷で、一定のコースを歩き続けて、すでに11年になる。ざっとこんな感じだった。
 その立ち話は、一時間ほどに及んだ。休日だったせいもあり、僕も急ぐ用もなかったので、まるで旧友にでも道でばったり出くわして、そのまま近況を伝え合っているかのようなで楽しかった。
 歩け歩けおじさんは、ここ数年は道端や人の家の庭先で見かける季節の花が楽しみなのだと言う。僕が、内地に住む友人の父が、桜の花を見るたびに、あと何回桜がみれるのかなあ、とぼやく逸話を伝えると、歩け歩けおじさんはしみじみとした顔をしつつ黙ってしまった。僕は話題の不適切さをすぐに後悔したが遅かった。


 だが、おじさんは笑顔で僕を見ながら、こう語るのだった。沖縄にはああいう桜はないですが、その気持ちは、わたしにもよく分かるんですよ。わたしにとっての桜は、向日葵なんです。あなたもすでに知っているでしょうが、沖縄の向日葵は、冬の一月、二月に咲きますね。それを見るたびに、心が晴れやかになって、そしてあと何度見れるのかなあって思うんですよ。
 年が改まった今年の沖縄はいつも以上に暖かい。今朝、早々と向日葵が咲いているのを、よく行く公園でみかけた。歩け歩けおじさんとあの坂道で会わなくなって、五日目のことである。





#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人



藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。

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