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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#32 貴様も猫である




念のため言っておくが、貴様だって猫である。
我はいたって冷静沈着、これはけっして戯言ではない。


どうやら貴様は、ストリートを彷徨っていた我を保護したあの日以来、主人面を構えて居るようだが、それは全くの無礼である。毎日毎日、食物を与え、便所掃除をしているからといって、主人だと思ってもらっては困る。我は感謝こそすれ、貴様の配下になってはいないのだし、貴様の存在は、せいぜい未熟な保護者といったところだ。
あの夜、今となっては顔も忘れた親とはぐれ、血相を変えてピンク色の柔らかな肉球をアスファルトに擦りながら路上をうろちょろしていた我の前に、二つの目から光を発する巨大な何かが、ブボボボという爆音と共にやって来て止まり、その中から貴様は出てきて、しばらく我を観察してから、不躾に抱き上げたのだ。無垢な我は、敵味方という区分すら知らずに、ただ呆然としていた。貴様は、遅れてブボボボから出て来た連れと、ぺちゃくちゃ喋りまくってから、我を放とうとせずに、ブボボボに戻ると、我を親からまんまと連れ去ったのだった。


これはれっきとした誘拐である。それ以外の何物でもない。貴様のせいで我は親と生き別れになってしまったのである。あのまま放置してくれていたら、親が迷子の我をほどなく見つけ、その庇護の元に戻し、今頃何不自由なく離乳期を経つつ、子猫の日々を謳歌していたに違いないのである。
だのに、だのに、貴様は、さも神様への課金をひとつ積み上げたかのような得意顔で、SNSなどを通して、自身の良心を垂れ流すような厚顔無恥をやってのけたのだ。いろいろやんちゃだったけど、わたしの本性は、小さな迷える命を放って置けないような善人だと告知活動をしたのである。


そんなつもりはないのは、貴様の目の奥を見れば分かるが、行為というのは実に表面的で、その表面だけがコミュニケーションのツールなのだという事実からすれば、貴様は少々迂闊だったとも言える。大方の見物人たちは、型通りに貴様の善人行為を容認し、時に賛同し、尊敬さえする。だが、その反面、苦々しく受け取る輩も多い。ちっちっちっ。こんな不況の中で迷い猫を保護して善意を垂れ流す余裕がある者は、なんだかむかつく。といった感情は、ことさら珍しくもない。善は隠せ、とは猫界では有名な格言だが、貴様は表面的には人間だから、そんな知識は持つまい。まあ、ええよ。


で、だ。
か弱き我は、ひとまず仮の宿として、貴様の宅に居座ることを受け入れた。もう少し、この人間の屋根のある家の中で、彼らの生活を目に映しつつ、日々を過ごすのも、いずれ何かの得になるだろうと、我は猫らしく、現実的な打算に従ったのである。
よく我ら高貴な猫族と、下卑な犬族は比較されたりするが、笑ったついでに屁が出るほど心外である。我らが現実的でクールなのに対し、やつらは常に白昼夢に彷徨い、実にならない愛情に飢え従う、ただの阿呆である。な、わけで、我は猫族の習性に従い、現実的でクールは判断を下し、犬的に阿呆な貴様ら人間の世話になることに甘んじた。高貴なプライドというのは、一時の恥を受け入れる度量があるものだ。
 

わあ、400グラムしかなあいー。

 
これ以上ない阿呆丸出しの歓声をあげて、貴様は体重計の目盛りを読んだ。我を保護して、二日目の朝のことだった。客観的な事実、ただの数字に対して、一喜一憂するのは、無駄なことである。我ら猫族は、そんな感情に振り回されはしない。ただの数値として認識して、必要ならば記憶して、それで終わりである。
人間は、ともかく感情を上下左右に振りすぎである。たとえば、人の不幸を自分の不幸として涙することは、不安定な魂の行状に過ぎない。感性が豊かだとか、本当の友達だとか、そういうのではない。本来、事実をただ事実として、感情のフレーバー掛けなどせずに、プレーンに味わい消化して、排泄するだけでよいのである。ともかく人間は感情というものの価値を持ち上げすぎだ。感情がカラフルなほど、輝いて居る、と180度の勘違いをしている。まあ、それも、ええよ。

 
ところで、もう一度言っておくが、貴様だって猫である。人間というのは一時の仮の姿でしかない。それを知らないのも無理はないが、とりあえず、伝えておく。

さて、さて。我が貴様の家で暮らし始めて、2ヶ月が過ぎた。貴様の与える子猫用のフードの味のひどさを貴様は知らないだろう。ドイツ製だかなんだか知らぬが、素材にこだわり抜いたフードは、貴様の自尊心を満足させているようだが、我の好みには合わない。せめてもう少し、我の好みを知ろうとする努力をすれば、まともな食物を与えることも貴様にもできよう。結局対象を見ずに、自身の顕示欲とポイントカードを満たそうとする勘違いを、人生の随所で織り交ぜながら、人間の一生は転がり続けるのだ。なんと愚かな種よ。
人間は、自らを全ての生物の長だと自負して居るようだが、笑止千万である。
進化の最先端にいるという彼らの言う科学的事実を基盤にした考えのようだが、その考えに沿って論じるならば、そもそも最新のものが最高などとする価値観が、幼稚である。未熟なものは進化を要し、完璧なものは進化を不要とする。つまり、猫族は、もはやこれにて一件落着、完璧なのだから、あたふた先へ先へなどと急がないのである。


その証拠のひとつに我を提示するのもいいだろう。400グラムそこらの幼猫が、こんな論を口にできること自体が、愚かな人間には想像もつかないだろう。人間の生後2週間の姿を思い描くがいい。完全未熟な最弱な存在ではないのか。最新最高の動物ならば、カラスに突かれたら、はいさようなら、な未熟な物体を許さないはずだ。生まれたら、すぐさまに二足歩行するぐらいの設計があってしかるべきであろう。要は脳が重すぎるのである。その脳は、何に使われて居るかと言えば、ほとんど妄想に使われているのだ。妄想とは不満足の産物である。こんなこといいな、できたらいな、あんな夢、こんな夢、いっぱいあるのは決して、目を輝かしている純粋無垢な姿とは言えず、むしろ現実にフィットと満足を感じられない、気の毒な恒常的欲求不満状態なのだ。つまり、しょうもない妄想をフル活動させるために肥大しすぎた脳のせいで、胎内で脳ばかりが先に発達し、これ以上大きくなったら産道を通過できないために、未熟な状態でも出産しなくてはならないという設計ミスをいまだに修正できていない類なのである。


妄想。これがそもそも貴様たちの元凶である。
もう少し言うが、妄想とは、ちょっと頭のおかしな輩たちの脳内活動ではない。一般的な人間の思考全般が、すでの妄想なのである。今を生きる我々猫族は、妄想などしない。目の前、現在の状態にのみフォーカスしているので、人間のように老後の心配、過去の失敗に悩むことなどないのである。
貴様ら人間は常に心ここにあらずで、後先のこと、少しでの体を使わなくていいような道具の開発に明け暮れて、それを文化度の高さなどと勘違いしているが、我々猫族にとっては、自然を荒らし、空気を汚し、他人よりも1ミリでも多く得をすることばかりにうつつを抜かして居る貴様らこそ、野蛮だと軽蔑している。
まあ、軽度の罵詈雑言はこのくらいにしておこう。





さて、貴様は我を誘拐し、閉じ込め、劣悪な食事を与え続けているが、まあ、よい。そんなこともあるだろうと、我は言うほど気にしていない。これもライフだと軽く受け流して居る。
ところで、さきほどから、ちょいちょい我が重要なメッセージを伝えて居ることを貴様はキャッチしているだろうか?
 

貴様も猫である。
どうだ?キャッチできていたか?


ここに、深淵なる事実というものがある。形態というものは一時的なものに過ぎない。貴様は自身を人類の一員だと思って居るのだろうが、それも一時的なもので、人間などというものは、実は幻に過ぎない。
詳しい説明は面倒なので省くが、これは頭の隅に、いや中心に据え置いておくがいい。人間というのは一時的な形態である。つまりは、着ぐるみのようなものだ。貴様が薄ら笑いを浮かべて、聞き流そうとするならそれはそれで良いが、確かにこの事実は今伝えた。
一時的な形態というのは、水が、気体、液体、固体、と変化するのとは意味が違うのだが、まあそんな感じをイメージするのも良いだろう。万物流転という言葉、いや、これ以上の説明はよそう。おそらく貴様には意味がわかるまい。知的生物を自称する貴様らは、その知性とやらを信じて居るようだが、たかが知れて居る。所詮堀の中の遊戯に過ぎない。その知性とやらは、人間と言う幻の中でのドメスティックな一活動に過ぎず、脳というあらかじめ限定された範囲での右往左往なのだ。
真理というのは、貴様らの想像の範疇外にある。
では、言おう。真理とは何かを。聞くがよい。
全ての存在は猫に帰結する。これだ。貴様だけではない、すべては猫なのだ。その一時的な表現形は実に様々なのだが、そこにある時計にしろ、カレンダーにしろ、冷蔵庫の中で賞味期限を過ぎたマグロにしろ、全ては猫の異なる表現形態に過ぎない。無論、貴様だって猫なのである。


そんな真理を伝える想いを込めながら、ダイニングテーブルの上に寝そべって、さきほどから貴様を見つめて居るのだが、貴様は、あーそう、眠たいの〜?とか言いつつ、我にソファから微笑みを送って居るばかりだ。
貴様は本当は猫なのだよ。猫が一時人間の形をして、人間の暮らしをやっているだけなのだよ。さあ、思い出してみるがいい。猫だと思い出したら、人間であることの悪夢に打ち震えるだろうよ。
一時的な人間状態の時に、滅多にないのだが、目覚めた輩は多少はいる。貴様ら人間が宗教指導者などとして尊敬して居る者たちだ。中でも仏教はいい線いっている。諸行無常などは、自分が猫であることを思い出すスタートラインだと言えよう。坐禅などはなかなか宜しい。だが、だが、やはり難しいのだ、真理に触れるというのは。だが、貴様はすでに解答を得た。あとは思い出すがいい。貴様が猫だということを。
貴様は、人間界の中で、日本人というのをやっているらしい。人間というのはチーム作りが好きで、別のチームと競争するのも好きで、たまに本気で戦争とかをやって殺し合う。日本人は、なんだか不気味だよ。なぜなら挨拶代わりにに、頑張ってね、などと言う。微笑みながら去り際に、じゃあ頑張ってね、とやるのだ。言うまでもなく、何事も頑張る必要などない。ただ在れ、というのは猫の常識である。人間がやりたがる目標達成という無限ストレスサークルとそこからの開放感の自己演出は、甚だ野蛮で、薬中のごとし。実に惨めな人生である。
まあ、どうも悪口ばかりになってしまったが、貴様にはいろいろ世話になっていることもあり、実は優しい気持ちを抱いて居る。感謝は特にないのだが。なので、頑張っての代わりになる言葉を贈ろうと思う。ほんの猫の気持ちだ。猫界、つまりこの世の基本となる思想が凝縮した言葉だ。


食えりゃ、いいじゃん。





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藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある
 
 

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