NeoL

開く

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#15 コロナウイルスと祈り




 習慣というのは、エゴと妄想力の強さを測る尺度だという言葉を無視して、自分には2つの習慣がある。
 

 一つ目の習慣は、朝のジョグ散歩。
 もともと、ただのジョギングだったのだが、早朝から心臓をフル稼働させて心拍数を130まで上げてしまうのはいかがなものだろう?という疑問というか、怠け心が働いて、さらにオーバー50という年齢を加味させて、登り坂はむきにならずに歩こうじゃないかということにしたのだ。いい決断だと思っている。
 自動車より、自転車、自転車より徒歩の順で、景色は良く見えてくる。
 目的地にどれだけ速く到着できるかを気にする頃を過ぎた自分は、タクラマカン砂漠まで足を伸ばさなくても、散歩の途中に見える景色に深い洞察を得られるようになった、とは言わないが、実は本音でもある。
 日の出頃のジョグ散歩では、僕が住んでいる村の(本当に村に住んでいる)長閑さが最も楽しめる時間帯だ。小一時間のジョグ散歩中にすれ違う人は、老人ばかりで、ちゃんと朝の挨拶を交換できる感じのいい人たちばかり。
 FILAのロゴ入りキャップを被った上下ネイビー色のジャージおじいさんは、いつものベンチで腹筋をしながら手を振ってくれるし、ヤギを飼う農園の前で軽自動車を停車してコンビニ弁当で朝ご飯を済ませているサングラス老人は、自分を見かけるとサムアップしてくれる。猛犬注意とある看板の下から吠えたてる柴犬の雑種は、最近吠え声が柔らかくなった。以前近所に住んでいた息子の同級生の母親は、毎朝15キロ走っているシリアスランナーだが、すれ違う時だけは、素晴らしいアメリカンスマイルを送ってくれる。そう、彼女はUSAからやってきて、この村を毎朝走っているのだ。なんというマイレージだろう。
 そして、そんな毎朝の顔馴染みたちの中でも、僕がもっとも気にかけているのが、沖縄の猪豚、アグーの親子だ。
 父、母、赤ちゃんの三豚家族で、僕が通りかかると短い尻尾をぐるんぐるん回して、多分喜んでくれている。母は父よりも体格が良く、子供は黒い毛に覆われた愛くるしさで、なんなく僕のジョグ散歩を一時中止させてしまう。赤ちゃんのぬるぬるした鼻先の感触を喜んでいる一生の半分をすでに使ってしまった人間のオスを、母と父は黙認して、いそいそと朝食を頬張るのに夢中だ。僕は、この三匹と一人、いや四匹の動物の交流をとても気に入っていて、夜になると、翌朝に雨が降りませんように、と実は祈っているのだ。
 

 二つ目の習慣は、車での移動中は、なるべくAFN放送を聴くということ。英語耳をいつまでもキープしようという細やかな試みだが、そのおかげで日本人以外が日本語以外で、何を話しているかの一端を、変わりばえのない日常にインサートしてくれている。
 ただ、それだけのことなのだが、習慣とはエゴと妄想力でできているのだから、たいした理由も、すばらしい効果も、鼻から僕は気にしていない。だが、惰性というのは、それほど馬鹿にできないなと思っている。
 AFNでは、コロナウイルスをコロナヴァイルスと発音する。ヴァにアクセントが来るので、日本語の平坦なコロナウイルスの発音に慣れた僕の耳は、当初はいちいち引っかかってしまっていた。ラジオ放送を聞いていて引っかかる音は、実際自分で発音してみる癖があるので、僕は仕事先に向かう途中に何度も何度も繰り返し、コロナ・ヴァアイルスと、ヴァアと強調させて発音しまくった。そのヴァイルスの脅威からしても、平坦にウイルスとやるよりも、ヴァアイルスと人を飲み込むように発音した方が、今ではしっくりくる。
 今朝もAFNでは、ニューヨークの感染者数の爆発的増加、死者数の大増加を数字を並べて伝えたり、その他の州、その他の国(日本も含む)の状況も伝えていた。僕の耳では、聞き取れないことの方が多いのだが、毎朝同じようなニュースを聴いていると、日毎にリスニングの能力が上がってくるのを実感できる。文節が千切れてくると、意味がぼんやりと、時にははっきりと立ち上がってくる。そのたびに、ボキャブラリー増やさなかきゃなと思うのだが、自宅の書棚にある数冊の待機単語集のことを思い返すと、そこで思考停止となるのだ。
 僕は、そしてほんの少しだけ考えてしまう。進歩と進化への意志の脆弱さについて。そして、時には、いつのまにかそれらが達成できてしまう不思議について。
 僕は、この半生において、時々このことに触れるたびに、柳に風のように生きていきたいと反射的に願うようになっている。いわゆる、しなやかな強さのことだ。流れに抵抗はしないが、流されるままでなく、ちゃんと根を張り、大地と繋がって動じない姿勢。





 今朝、本当に数時間前のことなのだが、僕がいつものコースを走っていると、ある小さな谷合の道脇に青草を結ったサンと呼ばれる魔除の印があった。
 沖縄の、ちょっと田舎にいけば、そう珍しくない印で、それを目にすると、ああ、この場所は気をつけなくちゃな、と思わされる。
 それは目に見える危険、たとえばハブとか、崩れやすい地盤とか、視界が閉ざされていて事故に遭いやすい角などの他にも、目に見えない危険、たとえば悪霊とかの類への注意勧告になっている。
 ジョグ散歩の途中で見かけたサンを見て、僕は昨夕の村内放送を思い出した。
 電信柱の上部に取り付けられたスピーカーから村民に向けて、ローカルなニュースを送る仕組みで、昨夕は、谷合で猪豚が発見されたので注意するようにと伝えていた。
 おそらく、そのサンは、谷合の猪豚へ向けられたものかもしれない。農作物を荒らすだけでなく、時には人にも危害を与えるのだから、僕も突然猪豚が目の前に鼻を鳴らして出てきても対応できるようにと、気を引き締めながらジョグ散歩を続けた。
 いつものように柴犬は吠えるのだが、その目は友好的で、振られた尻尾は警戒からの興奮ではなく、グッドモーニングと言っているらしかった。
 そして、例の猪豚家族を尋ねた。
 いつものように口笛で挨拶をすると、ブヒブヒいいながら母と赤ちゃんが尻尾を高速回転させながら寄ってくる。ああ、なんて可愛いのだろう。きっと半年もすれば、この赤ちゃんも小学生になってしまうのだろうな、などと完全に親戚の叔父さんになっていた。
 そして、すぐに父の不在に気づいた。
 もしや、谷合をかっとんでいる猪豚とは、この家族の父ではないか。
 僕は、意味もなくジョギングシュースの紐を結び直した。本当に意味のない行為だった。それがあってもなくても、世界は1ミリも動かない。僕は、残された母と赤ちゃんのことを気遣い、父の行方を心配しながら、ジョギングと散歩へと戻った。つまり習慣へと戻った。エゴと妄想の時間へと。
 自宅に戻り、シャワーを済ませ、北海道産小麦を使ってホームベイカリーで焼いたパンを食べ、仕事先に向かった。ラジオはAFNである。カースピーカーは今日も快調だ。
 午前中の仕事を済ませたら、スペイン人みたいに一旦自宅に戻ってランチを作って食べる。今日は残り野菜などを使って焼きそばでも作ろうか。そうしたら、午後の仕事をして、夕方には、あの猪豚家族の様子を見に行こうか。そんなことを考えながらハンドルを握っていた。無事だといいのだが。無傷で捕獲されるといいのだが。
 僕は、知らない間に、彼らの無事を願い、それは、彼らの未来の幸せへの願いへと繋がり、それは平たく言えば、祈りのようだった。
 AFNは、ニューヨークのコロナ感染ニュースを伝えていた。一通りの数字が並んだあとで、動物園のマレーシアタイガーのメス、ナディアが感染したことも伝えた。
 ナディア。最近読んだパキスタン人の小説のヒロインの名前と同じだ。写真家の沢渡さんの昔の恋人の名前と同じだ。だけど、AFNが伝えたのは、マレーシア原産の4歳のメス虎のことだ。
 僕は、人間なので、どうしても人類の心配が先立つのだが、猪豚と虎のことも心配する。この場合、「柳に風」な態度とは、どういうものなのか。
 車に入り込んだ蚊が僕にまとわりつく。信号待ちしている時に、フロントガラスにその蚊がとまっているのを見つけた。息を止めて右手を上げる。たぶん、ヒットできるだろう。そう思った瞬間、なんとなく力が抜けた。まあ、いいじゃないか。
 

 信号が青になる。アクセルを踏む。
 AFNに耳を澄ます。文節が千切れて意味が立ち上がる。
 僕は、発声する。
 コロナヴァイルス、コロナヴァイルス。
 
 





#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある

RELATED

LATEST

Load more

TOPICS