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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#22 北で手を振る人たち




 新千歳空港でレンタカーを借りた。
 旅先では軽自動車と決めているのに、北海道を走るならコンパクトカー以上じゃないと疲れるだろうと、ヴィッツを予約しておいた。
 今回の目的地は、白老にできたウポポイ博物館だった。アイヌをテーマにした国立の施設だ。かれこれ10年近くアイヌ民族に興味を持っていたわたしは、まだオープンして間もないそのその博物館を訪れる機会を伺っていたのだが、コロナのための自重を解いて向かう気になったのは、LCCのセールがきっかけだった。片道5000円ちょっとの値段に、コロナへの用心が簡単に薄れてしまった。折しものGO TO TORAVELに便乗すると、宿泊代も申し訳ないくらいの値段になっていた。 
 そんなこんなで、リモートワーク勤務で出社しなくてもいいこともあり、木曜の午後に出発したわけだ。仕事をこなしていれば、ばれもしないだろう。
 新千歳空港には夕方着いたので、時間的にはそのまま白老に向かっても良かったのだが、せっかくだから札幌で一泊して、美味しいものでも食べようと考えた。
 レンタカーをピックアップすると、白老とは逆方向の札幌へとナビのガイドに従ってゆるりと向かった。すでに傾いた太陽の光を受けながら、高速道路を北西へと向かう。窓ガラスは閉め切っているのに、ひんやりとした風を額に感じるような気がした。北に来ているという事実が作った感覚だとしても、それは心地よかった。
 北海道大学植物園を見下ろす部屋にチェックインすると、途端に移動の緊張がほぐれ、ベッドに身を投げ出すと、東京から離れた身の軽さに浸った。旅をすることの良さは、いつもと違うベッドで眠る楽しさを味わえることが大きい。アイロンの効いたシーツの感触にうっとりしていると、そのまま眠ってしまいそうな心地よさに沈んでいく。ずっとそうしていたいという体からのメッセージを断ち切って起き上がると、必要なものだけを小さなバッグに入れて、ホテルを出た。
 札幌の夜は、予想よりも寒くはなかった。11月の平均気温よりも3度くらい高いのだと今朝の天気予報が告げていたことを思い出した。それでも用意していた薄手のダウンジャケットを通ってくるひんやりとした空気は、北にいることを確かに実感させた。
 とりあえずスープカレーでも食べようか、いや寿司にしようか、そんなことを考えながら信号を待っていると、道路の反対側を行く50代くらいの男の人がわたしに向かって手を振っているように見えた。わたしは小さな動作で首を左右と後方に向けて周囲を確認したが、私以外に誰もいない。その男の人は信号を待っているわけでもなく、そのまま道路の反対側を歩き去っていった。
 わたしは、クエスチョンマークをそそくさと消去して、それについては忘れることにした。きっと人違いだったことに気づいて、あの男の人も今頃は赤面しているのかもしれない。
 知らない人に手を振られたりすることは、これまでも何度かあった。そのすべてが人違いだったろうと思う。わたしも間違って手を振ったことが何度かある。人違いだと気づいた時の、バツの悪さはユーモラスでもあって必ずしも悪いものではない。





 翌朝は、ホテルの朝食を早めに済ませて、8時前には札幌を出た。ナビは高速道路を使うルートを勧めていて、所要は1時間40分。一般道だと2時間50分を伝えていた。ウポポイは9時からなので、高速道路を使うべきなのだろうが、わたしは一般道を選んだ。そんなに急ぐ旅でもないのだから、高速からは見えてこない生活風景を楽しむ方に惹かれたのだ。
 ルートは国道36号をひたすら南へ向かうだけで、途中で気ままに寄り道もできる。そんなわけで、わたしはゆったりとヴィッツを南へと走らせた。天気予報通りの快晴に恵まれて、それはその日の素晴らしさを予告してるようであった。スマホとカーオーディオをBluetoothで繋いで、藤井風を口ずさみながら上機嫌でドライブを楽しんだ。
 ヴィッツは札幌市から恵庭に入った。そして最初の交差点で、またもやわたしは見知らぬ人から手を振られた。
 赤信号で停車している目の前を横断している自転車に乗った二十代の女の人が、わたしに手を振った。彼女は自転車に乗っていたので、それは一瞬のことだったけれど、視線まで合ったので、わたしに手を振ったことは間違いなかった。
 またしても相手の人違いなのだろうか。もし仮にそうだったとして、その彼女は自分の間違いに気づいていないようだった。
 わたしは、コンビニに立ち寄って、タマゴサンドとコーヒーを手にしてから、再びドライブを続けた。二口だけコーヒーを飲み、カップをドリンクホルダーにすっぽりと収めると、それだけでも全てがうまくいくような気になれた。
 そしてヴィッツがナビの渋滞迂回ルートにしたがって千歳の街に入っていくと、またしてもわたしは手を振られた。それはさっきよりも一瞬のことだった。ヴィッツはおそらく時速60キロは出ていたと思う。ジョギングをしている三十代くらいの男の人が、かなり前方から私に向かって手を振りはじめ、すれ違うその時までそれは続いた。
 それはわたしというよりも、シルバーのヴィッツに対してだったのかもしれない。おそらく知人の車と間違えたのだろう。シルバーのヴィッツなんて、どこにでもあるし、いちいちナンバープレートにある「わ」や「れ」の文字を確認したりしないだろう。
 北海道に来てから3人に手を振られたことになったわたしは、それでもこれらを偶然の範囲に留められると考えた。実際そんなたいしたことではないと。
 そして、4人目は、ウポポイの駐車場案内係の人だった。
 入り口に差し掛かったわたしに対して、本来誘導の仕草をするべき案内係は、ただ手を振ったのだった。わたしは思わず減速しながら窓を開け、なんとなく彼に微笑んでみた。案内人は、それには特に反応せずに「いらっしゃいませ。あちらへどうぞ」とまともなことを言うだけだった。わたしは、会釈で返し、そのまま駐車場へと入って行きながら、バックミラーでその男の様子を見つめた。彼が後続の車には手を振ったりしなかったのを確認すると、「手を振ったよな」と呟くに留めた。






 ウポポイは、割と混雑していた。制服姿の中学生たちがたくさんいて、なんとなく背中を押されるようにして、そそくさと展示を見終えると、それなりの感動はあったのに、もう一度来る必要があるなと思わされた。集中できなかったのは、中学生たちのせいではなくて、おそらく手を振る人たちなのだろう。
 わたしは白老から車で20分ほどの太平洋に面した虎杖浜にある温泉付きホテルにチェックインした。
 受付で、今日は団体客がいるので、レストランでの夕食は19時半以降を勧められた。もちろん三密回避のことなのだろうが、一人旅のわたしを気遣った言葉にも受け取れた。
 受付でGO TO TRAVELの1000円分クーポン券まで貰えたので、実際には3000円くらいで泊まれたことになる。そこまでしてもらわなくてもいいのに、と思ったが、悪い気もしなかった。しかし、他にも予算を使えばいいのにと最後には考えがまとまった。
 部屋は4名用の和室だった。窓からは虎杖浜の家並みと、その向こうに太平洋が見渡せた。風光明媚ではないけれど、大都市の札幌から来ると、等身大の北海道を見るようで、なんだかほっとした。
 四階の部屋から手を伸ばせば届きそうな家の庭には、初老の男の人が洗濯物を取り込むところだった。すでに夕方の湿気が衣服にも及んでいるはずだった。その男の人は、とくに慌てることもなく、どちらかと言えば悠然と、そして淡々と手を動かしていた。わたしはその様子を、懐かしいものでも眺めるような心地で見下ろしていた。
 視線というのは、結構簡単に伝わってしまうものだ。その男の人は、手を止めてわたしを見上げた。わたしは目が合ったことを感じて、少しだけ自分の身が強張るのがわかった。そして、そうなるだろうと予測していた通りに、男の人はわたしに手を振ったのだ。表情はよく見えないのだが、なんとなく微笑んでいるような気がした。わたしは、そうするしかないように、手を振り返した。すると男の人は手を振るのをやめると、何事もなかったように、最後の洗濯物を抱えると家の中に戻り、それきり庭に出てこなかった。
 翌日には札幌に戻った。
 ルートは来た道を逆に辿った。国道36号は、千歳市内で少しだけ渋滞したが、それ以外は気持ちの良いドライブとなった。
 帰路もわたしに手を振る人が、5人もいた。わたしはみんなに手を振り返した。それに反応してくれる人がいなかったのは不思議だったが、別に構わなかった。
 札幌に入ると、わたしは知らない人に車内から手を振ってみた。ちょっとした遊びのつもりだったが、なぜか自然にできた。外から車内は見えづらいのか、誰もが手を振られていることに気づきはしなかった。バックミラーに自分を映してみた。わたしは透明ではなかった。この世に存在しているのだった。
 


#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある
 
 

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