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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#25 縄文の初恋




「田中一平っていうんだ。その人の名前」
 君が夫に伝えたのは、初恋の人の名だ。リビングルームにちょっとだけ緊張が広がった。
「たなかいっぺい?一つの平?」
 君は、素っ気ない夫の声を聞いた。夫は興味のない振りをしているような気がした。
「うん、一つの平」
 君も抑揚のない調子で応える。
「字は完璧なシンメトリーだね。なんだか真面目そうな感じがする」
 君の夫は、50インチのテレビでYouTubeを眺めながら、君に顔を向けずに応えた。
「うん、真面目な子だったと思う。でも小学5年生の時の印象だから。当てにはならないし、今も真面目かは分からないけど」
 君は、何のために田中一平について夫に語っているのかが、よく分かっている。それは隠し事を避けるというよりも、どちらかと言えば、パスポート審査のような事務的な手続きに近く、そういうものだからこそ、ちゃんと済ませておきたかった。
「生きてるのかな?」
 夫の言葉に縁起でもないと思ったが、40過ぎの自分が既に4人の同級生を失っていることを君は思い出し、続く言葉が出てこなかった。
「まあ、気をつけて行ってきて。それと炙りがっこ、お願い。お土産に。他にも旨そうな秋田名物があったら、よろしく」
 君の夫は明るめの声でそう言って、その会話を斜めから裁断するように区切った、と思いきや、次の言葉を足した。
「ああ、それと舞子は、clubhouseってやってるの?」
「ううん、話題になってるけど、招待来てないから」
「ああ、そうなんだ。もし来たら、俺を招待してくれない?ちょっと興味があって」
君は、SNS弱者である夫の言葉を意外に思いながらも、適当に頷いておいた。


 翌日の早朝、上野駅から東北新幹線に君は乗った。
 進行方向に対して左側の窓側席に座ったのは、朝日の眩しさを避けるためだった。お茶のペットボトルと、鮭とたらこのおにぎりセットを隣のシートに置いて、ワイヤレスイヤホンでスタンドエフエムを聴き始めた君は、ホームから静かに発車した車両の小さな揺れに、早くも日常を離れた実感がした。車内は乗車率20パーセントといったところか。
 

 趣味は?と聞かれれば、縄文遺跡巡りと応えている君なのに、東北の縄文遺跡を訪れるのは今回が初めてだった。なぜかを問うのは無意味だ。そこに意味があったとしても、なんの足しにもならない。世界は意味のない行為で満たされている。そして、意味のない行為に意味を与えようとして、嘘が増えている。


 岩手の二戸で新幹線を降りると、予約しておいたレンタカーに乗り換えて、君は大湯環状列石遺跡に向かって西へと車を走らせた。予定では、最初に大湯のストーンサークルを見てから、残りの主だった遺跡を巡り、どこかで一泊して、明日中に秋田駅から帰京することにしていた。つまり、岩手の二戸から西回りに県境を越えて、最終的に県庁所在地の秋田へと向かいながら、途中の遺跡を巡るというルートを君は思い描いていた。宿泊地は、遺跡を見ることを優先した上での成り行きに任せようと決めていた。今はどこのホテルや旅館も空き部屋があるのは分かっていた。
 大湯のストーンサークルに君が到着したのは11時過ぎだった。小雨が降っていたので、レンタカーの営業所のスタッフが持たせてくれたビニール傘が役にたった。
 駐車場は広々としていたが、客は少なかった。4月になり、冬季の休館明けということもあり、それなりに混んでいるだろうという君の予測は外れ、ステイホームがデフォルトになってしまったのだろうかと君は思った。
 だが、貸切状態で、遺跡を巡れたのは良かった。
 遺跡を訪れる時の楽しみは、それが使われた当時を想像し、その世界に浸ることだと君は考えているので、誰にも邪魔されないことに君は満足した。サークル上に配置された石を視線でなぞりながら、少し想像力を増せば、MR のように縄文人が歩いている姿が目の前に浮かんでくるのだった。
 テクノロジーの未来図では、想念と現実のボーダーが淡くなるとされている。誰かと話したいと思うだけで、高度に張り巡らされた超高速通信網と感情を含んだ情報を脳から取り出しデジタル化することで、スマホやヘッドセット無しでもタイムラグなく誰かと会話ができたり、そこに存在しないはずのものを現実と変わらない精度の立体映像として目の前に出現させたりすることが可能になる。それは幻と現実が同居するような世界で、言うなら子供時代の現実と空想がごっちゃになった世界を科学技術によって定着させるのと同じだ。
 君は、そんなことを考えながら、科学技っていうのは結局子供の能力を再獲得するためのものに思えた。つまり、縄文人の姿を想像で立体映像化し、現実の風景と重ねることなら、そもそも子供時代の能力を退化させなければいいし、遠くの人と会話をするなら、超能力を学習すればいい。科学技術というのは随分と遠回りしているように思えるのだった。


 大湯には、いくつかのストーンサークルがあり、それをひとつひとつ丁寧に見ていきながら、君は円形を志向する人間の精神文化についてひとしきり考えを巡らせた。
 ポイントは2つ。円には始まりと終わりがない。そして円は一つの中心点を持つ。この永続性と求心性というのは、縄文人から現代人に繋がる、人類の精神性の背骨のようなものだと君は考え、ひとまずそれをキープすることにする。
 そして君は思うのだ。こんなことを考えてもランチの味は変えられないのだと。


 雨は霧のようで、傘を広げるか閉じるかを何度か迷いつつ、結局は杖のように使って芝生の上をつついて歩くことになった。
 

 やっぱり、まさかだよな、と君は心の中でつぶやく。会えるわけない。
 田中一平という名の男のことを君は思いながら、30年前の少年だった彼の姿から現在の姿を想像しようとする。



 

 あれは小学5年生の春休みだった。
 新学期前に転校していく田中一平に、君は密かに恋していた。
 一週間ぐらいかけて何度も書き直した手紙を、女子4人男子4人でランチした後で、押し付けるようにして田中一平に渡した時のことを思い出すと、君は今でも顔が熱くなる。そこに集まったクラスメイトたちは、田中一平を含めて、君が彼を好きなのを知っていたし、二人がもう会えないということもわかっていたので、その年頃の子供たちがするような冷やかしの歓声をあげたりすることもなく、むしろみんなが温かく見守る中で、その出来事があった。それはちょっとした儀式のようでもあり、小学5年生から6年生への春に吹き抜けた温かいような冷たいような風であった。
 
「山口、いつか秋田に来いよ。大湯のストーンサークルってわかるだろ?新しい家はその近くだから」


 今思えば、声変わりする前の田中一平の声は、けっこう高かった気がする。君は旧姓で自分を呼ぶ田中一平の声を覚えているのが不思議だった。服装とかは全く覚えていないのに、それはもしかしたら彼の声も好きだったということだろうか。そもそもきっかけは、お互いに縄文遺跡が好きだという共通点だった。社会の授業中に、なぜかそのことを知ることになり、その授業後の休み時間に話し込んだのをよく覚えている。窓際にあった君の席に、田中一平はわざわざ一人でやってきて、お互いの好きな遺跡を喋ったりしたのだ。彼は縄文のビーナスという土偶を見たいと言っていて、それは長野県にあると君が返すと、そんなの知ってると彼がちょっとムキになったのだ。


「山口、いつか必ず来いよ。そうしたらストーンサークル案内してやるから」


 あの春休みのランチが終わり、手紙を渡し、やがて新学期が始まり、君は6年生になった。クラスの何人かは中学受験をしていたが、ほとんどは地元の公立校に進学し、君もそうだった。そうだ、あの頃はそんなだった。君は中学受験に合格し、明後日に入学式を迎える長女のことを思い、自分の頃と微かに重ねた。自分が田中一平へのラブレターを何度も書き直しているのと同じ頃、娘は受験後の開放感に浸って遅くまでスマホをいじっている。もしかしたらその相手の中には、恋している人がいるかもしれない。君は、スマホ漬けの娘を苦々しくおもう気持ちが少し軽くなるのを感じた。


 結局山口一平は、君に手紙の返事をくれなかった。そのことに気を揉み続け、おそらく傷つきもしたのだろうが、そのことを君はあまり覚えていない。6年生を終えるのを待たずして、君は別の人に恋をして、田中一平のことを思い出すこともなくなっていた。
 ただ、縄文好きは今日まで続き、それがきっかけて田中一平を思い出すことも稀にあった。そんな時は、きまってあの手紙を渡した瞬間の記憶が蘇り、顔が熱くなるのだった。


 そして5年生だった君は30年後になって、ようやく田中一平が住んだ町に来ることになったのだ。
 ストーンサークルの周辺を歩く縄文人の姿は消え、入れ替わるように、5年生の田中一平の姿を君は想像によって目の前に立たせた。
 想像するには、記憶が曖昧で、それは再現というよりも、新たに作り出したといった感じだった。30年前の子供達の服装なんて、いったい誰がリアルに覚えているだろうか。それでも君は、割と自然に少年時代の田中一平を目の前に立たせることができた。一人旅の君は、いつしか二人になってストーンサークルを眺めているのだった。
 君は想像した。せめて6年生くらいの時にここに来ていたら、こうして田中一平と本当に並んでいられたのだろうか。初恋の相手と人に聞かれれば、おそらく田中一平だと答えるだろう。手も繋いだこともなく、ただ縄文好きというだけで、自分の中の何かが認められた気がして、恋と間違えたのかもしれないけれど、それでもあの時の手紙に書いたことは本心だった。その人のことを思うと、胸が苦しくなることは初めてだった。


 ふと気づくとサークルの向こう正面に詰襟の黒い学生服を着た少年が一人でいた。身長は170センチくらいはあるだろうか。おそらく高校生だろう。君は、田中一平のことに集中していて、その彼が近づいて来て、そこに立つまで気づかなかった。君は、現実という言葉が脳裏を掠めるのを感じた。小学5年生の田中一平は消えてしまい、しばらくは戻りそうになかった。
 君は再び歩き出し、このサークルを一周したら、そろそろ次の遺跡へと向かおうと決めた。
 まもなく高校生のいるところまで来ると、君は彼の顔を見て驚いた。
 

 その高校生は、優しく微笑みながら、快活に君に話しかけた。


「山口、やっと来たな。遅いよ。俺は17で死んじゃったよ」
 

 君は学生服姿の彼を見つめた。声変わりしている、と君は思った。


#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
#24 南極の石 日本の空


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある
 
 

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