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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#30 ZEN-は黒いのか




暁天坐禅会に参加した後で、さて、鎌倉まで歩こうかという気分になった。梅雨明けの早朝の古都を歩けば、いいアイデアが浮かぶのではないかという打算もあったのだが、それよりも、ただ歩くことを楽しみたかった。


北鎌倉は、学生の頃に住んだ街だったので、土地勘はあった。あの頃は、近代の日本文学に漠然と憧れていて、その時代の文学に耽溺していた。鎌倉が、その頃の日本文学の中心地というわけでもないだろうに、青二才が鎌倉を毎夜酔っ払って歩けば、なんとなく文学に近寄っていられるような馬鹿げた思い込みが当時の僕にはあった。それは三鷹ではなく、本郷でもなく、小石川でもなく、やはり鎌倉界隈である必要があったのだ。
そんな鎌倉贔屓の僕だが、座禅会に参加したことはなかった。鎌倉といえば、五山に代表されるように、禅寺のメッカとしても有名なのはさすがに知っていたけれど、ことさら興味を持たないまま、今日まで素通りしていたのだ。
だが、コロナが落ち着いたら日本に来たいという海外の友人からのメッセージの中に、禅に強い興味を持っているので、是非いろいろ教えて欲しい、というのが複数あったので、リサーチがてら鎌倉にやって来たのだ。
暁天坐禅会というのは、夜明け頃に行われるため、前夜北鎌倉に前泊しておいた。ワンルームマンションの民泊だったのだが、ドアに鍵をかけて、ベッドに入ってしまうと、そこが祖師谷なんだか、福岡なんだか、弘前なのか、全くわからないもので、旅というのはつくづくドアの外にあるのだなあなどと思いつつ眠りについた。


翌火曜日、朝の5時半過ぎに某禅寺の山門を通ると、凛とした空気に、心地よい緊張感を覚えた。気のせいか、お香の匂いさえ感じられ、踏みしめた砂利の音に、時代を遡るような、気が遠のく愉楽があった。これから禅の修行の一つである坐禅に参加する身なのに、生きると言うことは遊びでしかない、というような天の声が聞こえるようで、人生とはどんな形をとるにせよ、道楽でしかないという思念に包まれた。
早朝の禅寺の聖なる空気による緊張感と、それと相反するある種の刹那的で官能的な雰囲気を同時に感じ取りながら、その差異が生む悪戯な揺らぎに、すでに早起きをした甲斐があったと思った。
海外の友人も、きっとこの雰囲気を気にいってくれるだろう。早起きして、風格のある山門をくぐり、お香の匂いを感じ、禁欲的な禅の雰囲気に浸りつつ、しかし、なぜかそこに官能を見つけたりするかもしれない。それは、きっと素晴らしい思い出になるにちがいない。僕はそんなリサーチ的な視点も意識しつつ、指定された堂にたどり着くと、背筋を伸ばし、襟をただすような気持ちをつくって、中へと入った。
普段の、観光でゆるりとめぐる時とは、この時ばかりはお堂も違って見えた。ここでこれから座禅を組むと言う具体的な目的があるだけで、その場所がぐっと近い存在になる。身近になるとは、まさにこんな感じのことを言うのだろう。
僕は、古参風の参加者たちを見様見真似して、端から座布団を2枚お借りして、他の人から遠からず近からずな位置についた。平日を選んだのは正解で、人も多くはなく、それぞれが何かの覚悟を持って臨んでいるような真摯な表情をしていた。誰もが一切口を開かずに、黙々とするべきことをし、古参の方は、窓を開けていき、それを手伝う人たちの動きにつられて僕も立ち上がったが、すでにすることは無さそうだったので、しばらくその場に立ち尽くし、頃合いをみて、再び座布団に座った。


その後、特にガイダンス的なものはなく、寺は場所提供に徹しているようで、新参者は、古参者を真似てする以外なく、海外からの友人には、僕が在る程度事前に座禅について知識を入れて説明しておく必要があることもわかった。
その朝の坐禅会の愛想の無さは、見ようによっては禅のイメージそのものに近く、その無口さが逆に海外の友人たちの心を掴むような気がした。べらべらと口達者な僧がいる空間よりも、きっと友人たちが喜ぶのは、ミステリアスな沈黙であるだろうし、その点では、この暁天坐禅会は、いいチョイスだと思えた。
個人的な体験としては、背筋を伸ばし、足を組み、印を結んでただ座り続けるというのは、楽しい経験であった。それらは、一つ一つが小さな動作であるけれど、普段はやらない非日常的なもので、といっても、身体能力を発達させる必要のある曲芸的な動作ではなく、やればひとまず形はできるもので、そこが面白いと思った。足を組んで、背筋を伸ばして、印を結ぶ。そして意識を何かに集中させるだけだ。いたってわけもない動作なのに、その深さは底知れないと感じた。日常の動作のちょっとした延長が、深い何かに繋がる。なんという不思議なことだろう。


座禅を終えて、お堂を出ると、まだ6時過ぎだというのに、昼ごろに感じた。一仕事終えた後のような安堵感と充実感。座っている間は、常に雑念があったのだが、それでも座り続けていると、次第にすっきりと落ち着いてくるのが自分でも分かってきて、それが心地よく、楽しい経験だった。来る前は不安もあったのだが、暁天座禅会を終えた今となっては、次に来る時は少しだけ前知識を入れておこう、とすっかりリピートする気になっていた。


北鎌倉駅の近くにあるその禅寺から、線路沿いに南へと歩き出すと、ジョギングをする人とすれ違うことが多かった。平日のこの時間に走っている人たちの中には、リモートワーク以後から始めた人もいるだろう。通勤時間が案外ちょっとした運動になっていて、それがなくなってから体重が増えた人が多いと聞く。彼らにとって、朝のジョギング習慣は、言わば動くことを課したものなのに対し、僕が坐禅に興味を持って始めようとしていること自体は、動かないことを課すと言えるだろう。運動不足解消と精神面での安らぎを得ようとするのとでは、出発点がそもそも違うのだから、単純にベクトルの方向を比べることは意味がないけれど、同時期に起こった異なる変化の対比としては、やはり面白く思えた。
日常の小さな気づきから、いろいろ思索を広げていくことは、僕の癖のようなもので、それは娯楽でもあった。
たとえば、さきほど禅寺の境内で見つけたカタツムリを例にとっても、僕はきっと小一時間なら、ずっと観察することを楽しめる。なぜなら、それは美しくも奇怪な形をしていて、ねばねばしたカタツムリの体は、我々人間とは全く異なり、それは目の前に現出している奇跡といえば、そうとしか言いようのない物珍しさに満ちている。と、僕には確信できる。大方の人間たちにとっては、ありふれた生物にわざわざ立ち止まって貴重な時間を費やす価値などないのだろうが、僕はそうではない。
あの遅い歩みと、この僕の、人間の相対的にはかなり速い歩みの合流地点が、在るというだけでも奇跡なのに、その奇跡を感じないまま通り過ぎることなど僕には不可能なのだ。そしてその奇跡が、確率の問題だけでなく、もうちょっとスピリチュアル的な出会いさえも含むとしたら、僕はそれをやはり吟味したくなるのだ。
そんなことを言ったらきりがないじゃないか、と大方の人はつっこむだろう。はい。その通りなのだ。きりがないのだ。一歩進めば、踏む場所とそうでない場所とがあり、そこに意味を見つけることもできる。次の瞬間、額に風を受ければ、その風がどこから何を掠めて自分の額へと辿り着いたのか、ということも当然意識する。次の瞬間、遠くで犬でも吠えようものなら、なぜ今その犬は吠えたのか、という疑問が生まれる。こんな具合に、全ての現象は、不思議な偶然と、それを必然とみなす知性とに埋め尽くされて、歴史を転がり続けている。
いったい何を言っているのかといえば、現象と意味について考えているのだろう。


僕は、北鎌倉から鎌倉へとゆっくりと歩を進めながら、頭に登った血を下げようと深い呼吸を繰り返しながら、歩くことにした。きっとこんな思索よりな僕だからこそ、頭を空っぽにする座禅とかがいいのだろう。
歩きながら、いわゆる歩きスマホをして、メッセージを開いてみると、香港の友達から誕生日を祝う言葉が入っていた。そうなのか、僕はいよいよ30歳になるのか。香港人のジェーンは、自らのご学力を誇示するつもりはないだろうけれど、ヘブライ語、韓国語、中国語、日本語、英語、ポルトガル語を混ぜながら、盛大に言葉のシャワーで僕の誕生日を祝ってくれているようだった。プロフィールに生年を置いておくと、こんな風に、産まれて何回目の誕生日だかが簡単にわかられる。普通は伏せておくのかもしれないけれど、僕は生まれた年とか年齢は、結構大切なインフォメーションな気がしているので、逆に伏せる理由もない。
ジェーンは、僕よりも確か1つ上なはずだ。誕生日まではわからないけど、場合のよっては、一時的に同じ30歳という状況かもしれない。ジェーンは、しょっちゅう髪の色を変えていて、それは彼女にとって地下鉄のライン乗り換えぐらいに自動的なものなのだろう。身長は168の僕よりも10センチも高く、しかも子供の頃からレスリングをしていて、たぶん喧嘩をしたら、ちょっと難しいことになるだろう。ブラジル人の柔術家と数年前に結婚して、子供はまだだけど、もし生まれたら格闘技をする可能性がとても高いはずだ。パパが柔術家、ママがレスラー、想像しただけで、筋肉痛になりそうだけど、なんとなく自分と離れすぎていて、眩しくもある。そのくせジェーンの口癖は、「女の子は弱いのだから、優しくしてね」だった。それはだいたい会計時に彼女の厚みのある唇から滑舌最高な感じで発せられることが多かった。僕は、それほど経済力が昔からなかったが、おごらされるたびに、悪い気はしなかった。僕は、もともと消費家ではないので、なんとなくお金はいつもあったから、ジェーンにご馳走するくらいわけなかったし、お金の使い方としても、悪くはないと思う。そして、今でも時々、ジェーンを思い出すたびに、「女の子は弱いのだから、、、」を口にする時の、わざと大袈裟に作った媚びた表情が浮かんできて、微笑まされてしまうのだ。
そんなジェーンに、誕生日のお祝いメッセージの返信をして、その中で、たった今、鎌倉の禅寺で座禅をやってきて、最高だったと伝えると、すぐに返事が来て、禅て面白いの?禅て、あの黒いやつでしょ?とあった。
禅は黒いのか?と僕は吹き出しそうになったが、確かに禅は黒いかもしれない。黒い法衣をまとった僧侶を思い浮かべるまでもなく。テーマカラーがあるとしたら、やはり黒だろう。
そして、僕はいつものように、髪をやたらと染め直す彼女にとって、多くの事は、色のイメージに変換されて認識されているのに違いないと考え、感心してしまった。それは、実に芸術的な日常ではないか、と。
今度、日本に来ることがあったら、ぜひ一緒に座禅をしよう、と誘うと、ジェーンは黒い髪の時だったら行くと思う、と返してきた。そして、サトシはいつも黒毛の坊主頭で飽きないの?君は結構マッシュとか似合うと思うけど、と送ってきた。僕は、冗談のつもりで、じゃあジェーンと座禅する時は、金髪のマッシュで!と返すと、それ!と彼女。そして続いて送られてきたメッセージは、やっぱりだめだよ、禅は黒なんだから、とあった。僕は、面白い冗談を返してみたかったが、何も浮かばずに、正面から走ってくるカップルが、黒いランニングシューズ、黒いショーツ、黒いTシャツ、黒いキャップなのに目を奪われた。禅だな、とつぶやくより他はなかった。
ジェーンからはもう1つだけ返信がきた。「実は今、日本語で書かれた禅の本を読んでいるの。偶然ね。鈴木さんのやつ」


#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
#24 南極の石 日本の空
#25 縄文の初恋
#26 志織のキャップ
#27 岸を旅する人
#28 うなぎと蕎麦
#28 その部分の皮膚


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある
 
 

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