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藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#51 客観的なベッド




人間というのは、客観的に語りたくなると、科学的根拠をどこからか引っ張り出してくるものだ。それはもはや習性と言っていいだろう。科学的データや知見、名称を並べれば、真実に接近していくのだと我々は信じている。
客観的に語るというのは、情熱を傾けられなくなった事柄を前にする時に便利なやり方でもあって、感情にその場から一旦どいてもらうことで対象の本質が明らかになり、対処法の選定と効率を上げる効果がある。


近藤俊彦は、射精を控えることにしている。
1ヶ月で射精を1回だけに限定する習慣によって、生産性が上がったと近藤は信じている。もともとはナポレオン・ヒルの自己啓発書「思考は現実化する」の中で1章をさかれて記されていた内容に触発されたもので、その後様々な関連書を読み込んだ結果、セックスは多くてもいいが、射精を我慢してオーガズムを排除することで、多くのメリットが享受されるという結論に至った。

 
近藤が注目したのは、テストステロンである。
これは、男性ホルモンの1種で、この値が高い男ほど、いわゆるモテるとされている。セックスをばんばんしまくって、射精を繰り返しまくる男ほど、このテストステロンが高いようなイメージがあるが、実際はそうでもなくて、セックスをしまくるのはいいが、射精は我慢した方がテストステロン値は高くなる。
事実、近藤はこの出場者1人限定射精我慢大会によって、フェロモンが劇的に変化したのではないかと思われるくらいに、女性が近づいてくるようになったのだ。これはいわゆる厳粛なる数に表れているので、主観ではない。主観があるとすれば、モテているのでは?という勘違いがそれにあたるが、近づいてくるうちの数人とベッドを共にした事実が、それに信憑性を与えていた。
43歳の働き盛りではあるが、特に外見に秀でているわけでもない近藤にとって、同時期に複数の女性を相手にしたことは、これまでなかった。もともと特定の彼女を作らない、という一風変わった癖を持つ男ではあるが、それは女には困らない星の住人だからではなく、むしろ深い付き合いというのが不得手な性分から来ていた。
ただ、セックスはしないわけにはいかないので、なんとなくそうなった人を繋いでやりくりし、どうにかなっていた。





近藤真子は、近藤俊彦と同姓というだけで、とあるジャズバーで俊彦と親しくなり、世代が近いせいもあって、カラオケでの選曲もばっちりはまり、楽しい夜を何度か一緒に過ごしたあと、知り合って三週間ぐらいで男女の仲になった。
俊彦が射精我慢大会中であったのは言うまでもないが、真子(まこではなく、まさこと読む)は、射精に至らない俊彦に気づき、それを自分のせいに感じてしまった。それこそ、持てる技術の全てを投じて俊彦をいかせようとするのだが、ケーゲル体操をやりこんでいる俊彦にとっては余力を持って堪えられるものだった。確かに真子の技術は上の下くらいはあるのだが、それを超えていくのが俊彦の骨盤底筋なのだった。
ちなみにケーゲル体操というのは、尿を止めるのに使う骨盤底筋を鍛える体操で、1回10秒、1日に数回、この筋肉を締める運動だ。
この体操は、男性の射精をコントロール力を増やすだけでなく、女性もオーガズムと泌尿器機能が高まる。
近藤俊彦は、近藤真子が何に挑戦しているかを十分承知の上、好きなようにさせ、その技術を堪能してから、実は、と話を切り出した。もちろん労いと感謝の優しい言葉を先にして、さらに優しい声で囁きながら説明すると、真子はこころから感心し、関心を示した。
女も性欲が強まる、という一点だけではあるが、人生一度きり、というフレーズが何故か脳内を旋回し、アドバールーンのようにぶら下がり、つまり気になってしまったのだ。


かくして、近藤俊彦と近藤真子の昭和感たっぷりに並んだ名前の2人は、デートの日を目標に定めて、骨盤底筋の自主トレに励みはじめた。それはバドミントンのペアのような共闘感さえあった。


真子は俊彦の影響もあって、しばらく科学的な視点から、セックスを見つめることにはまった。
真子には読書に没頭するための場所として、明治神宮内のカフェを日頃から使っていた。周囲に座るのは観光客ばかりだが、場所柄大声での会話は自主規制されていて、ほどよいざわめきは読書に集中させてくれる適度なノイズとなっていた。

 
頻繁なオーガズムは女性の身体にエストロゲンとオキシトシンを溢れさせる。この2つのホルモンが、相乗効果によって、相手との心地よい絆とリラクゼーションを楽しませてくれるのだ。言ってしまえば、セックス後にうっとりとなり満足に浸れるのはこのホルモンのおかげで、それがたっぷり出るとなると、それはそれは素晴らしいセックスを実感できるということになる。
真子は、本の中の文章を普段の習慣どおりにスマホにメモりながら、明日のデートに早くも思いを馳せて、内側から温かさが染み出してくるのがわかった。
そんな気分の高まりを冷まそうと、本から視線を上げて、周囲をなんとなく見渡すと、何人かの男が遠すぎず近すぎずの範囲の視野に入ってきた。真子はその中から3人ほど選んでは、彼らが射精をどのくらい粘れそうなのかを、つい見定めようとしている自分に気づいた。
あいにく真子のタイプはいなかったが、なんとなくタメがないというか、乾いているというか、体内に精液のストックが乏しいような3人だと感じた。
彼らからしたら、明治神宮のカフェで、自分がそんな風に見定められているとは夢にも思わないだろう。避妊具をつけずに、中出しを堪えるくらいのことはしているかもしれないが、意識的に、ある目的を持って、射精を堪えている人というのは、希少種であるに違いない。





女性の生活習慣病に自然療法的見地からしても、と翌日の夜に、俊彦は真子の耳元で囁いていた。真子は2回目のオーガズムを迎えた後で、俊彦の腕の中でまどろんでいた。
免疫機能が調整されて、アンチエイジング効果があるんだよ。
そう囁く俊彦の声は、いつもよりも心地よく響いた。感情を込めずに淡々と、だが、逆にその無機的な感じが内容に合っていると真子には思えた。
オーガズム後に、コルチゾールが減る。コルチゾールは炎症を起こすストレスホルモンだから、ストレスからの解放と炎症などの症状が減るということだね。まあ、これは感覚的に理解できると思うけど。いったら解放されるもんね。
最後のフレーズは、2人とも同時に口にしていた。


でも、不思議じゃない?男はオーガズムを抑えたほうがよくて、女はその逆って。
そうだな、不思議っちゃ不思議だよな。でもそれが男と女ってもんじゃないかな。


似て非なるもの、って感じかな。おんなじ人間なのにね。
まあ、そうだね。

近藤俊彦は、多くの人が文頭に「でも、」と置いてしまうようなことは避けていた。以前は彼もその癖があったが、否定から始まる感じが嫌になって、なんであれ、ひとまず肯定することから会話に加わるように癖を改変した。
男と女は似て非なるもの。いや、全く似ていないと俊彦は常日頃から感じていた。少なくともタヌキとキツネぐらい明確な差があると。ただ、ある人々にとってはキツネもタヌキも同じように見えるらしく、かえって焦点がぼやけてしまうこともあった。


男と女の差は、キツネとタヌキの差よりも広いのだろうか。


たった今、真子の中では、エストロゲンとオキシトシンが大量に溢れている最中だね。
そうね、そして、俊くんの中ではテストステロンが出まくっているんだよね。体の中に精液をたっぷり蓄えたまま。


おそらくこんな会話じゃ、AVのシナリオにはならないだろう、と俊彦は考えながら、真子の短い髪の毛を指先で弄んだ。


セックス後の、女にオーガズムを与えた後の男の満足感は、自分がオーガズムを
迎えた時の満足感とどちらが上のだろう。これは俊彦にとって簡単な問いであり、与える喜びによってテストステロンは激増し、それを受けての女を惹きつけるフェロモン増量によって、新たな女が寄ってくるという無限ループ。これは不労収益のシステム化に成功したかのような棚ぼた感がある、と俊彦は思った。
先に与えるというのは、億り人が実践しているたしなみでもある。


射精後に男の人の体で急増するのってなんだっけ?
ああ、プロラクチンね。セックスへの興味が減退し、眠りたくさせるホルモン。


オーガズム後の会話というのは、だいたい一対のフレーズセットだ。と俊彦は気づく。
思考するのも億劫で、壁打ちのテニスをしているようなものだ。戻ってくるボールの場所へステップし、次に打ちやすいように考えて、壁のいい場所に当たるようにコントロールする。ガットのスイートスポットに当てて、適度の回転をかける。それがうまく行き始めると、頭の中がからっぽになって、そうまるでオーガズムの後の真空状態、つまりゾーンに入っていける。


エストロゲン、オキシトシン、プロラクチン、テストステロン。それらは楽譜上の音符のように口の中で踊り、別の口へと移動していく。


俊彦は、次の射精の計画を立て始める。まだ真子には射精していない。そろそろいいタイミングかと思う。射精を我慢している意味を理解してもらい、その価値を十分に染み込ませた後で、射精された時、女はとても嬉しそうにする。だが、それはその女に十分なオーガズムを与えた後だ。


ねえ、次に会う前に明治神宮に参拝しない?
いいよ。また随分変わった場所で待ち合わせだな。
そう?わたしはいつもそうしたかった。


3フレーズになっていることに俊彦は気づいたが、4にする気にはなれなかった。

 





藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。


#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
#24 南極の石 日本の空
#25 縄文の初恋
#26 志織のキャップ
#27 岸を旅する人
#28 うなぎと蕎麦
#29 その部分の皮膚
#30 ZEN-は黒いのか
#31 ブラジリアン柔術
#32 貴様も猫である
#33 君の終わりのはじまり
#34 love is not tourism
#35 モンゴルペルシアネイティブアメリカン
#36 お金が増えるとしたら
#37 0歳の恋人20歳の声
#38 音なき世界
#39 イエローサーブ
#40 カシガリ山 前編
#40 カシガリ山 後編
#41 すずへの旅
#42 イッセイミヤケ
#43 浮遊する僕らは
#44 バターナイフは見つからない
#45 ブエノスアイレスのディエゴは
#46 ホワイトエア
#47 沼の深さ
#48 ガレットの前後
#49 アメリカの床
#50 僕らはTシャツを捨てれない

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